太宰治の小説、『斜陽』の一説にナイフ・フォークを流麗に使い熟す事は少しも上品なことではない…というのがある。
肉を手掴みで口に運ぶ時にこそその人の人品は隠し様もなく漂うものである…と彼は主張している。
食事の作法はできる事に越したことはない。
しかしともすればその作法を使いこなせず作法に使われている?そんな人は多いのかもしれない。
『気取ること』と『上品なこと』は対極に有るのだと言うことである。
「こうするべきである!」「このように事は進めるべきだ!」といった『べき!論』に囚われる時、人の為の作法が人を支配し始める。
僕達はお箸の文化の日本人。
メニューによっては欧米人の様に上手く食せない事も多い。
僕の店ではスペアリブのステーキは手で摘まむことを推奨している。
勿論、ナイフ・フォークを提供した上で。
アメリカ大統領でさえ日本食を食べる時、お箸を使う。
その運びが稚拙でもそれを笑うものはいない。むしろ微笑ましい表情で好意的に見守っている。
ぜひ、手掴みで!とおすすめしたら『私は類人猿か?手掴みを強要された』なぁ~んてグルメサイトに投稿されたこともあった。
洋食屋のくせにライスをお茶碗で出された。平皿で提供するべきじゃね?なぁ~んて的外れな指摘も受けた…。
腐心してボーンチャイナの洋食器にマッチさせ、粋な和洋折衷を実現するために有田焼のお茶碗を吟味した努力は理解されないこともあった。
人間が楽しむためのアレコレの様式や作法を狭小な観念と判断で切り取り、独善的な批判を展開する人は結構いる。
太宰治のいう『お母様の気品』は様々な作法を習得した上でデフォルメすることの美学なんだけど…。
『食を愉しむための基本』は、様式や型式より何よりも先ず『愉しもうとする意欲』あって成立するものだと僕は思うのです。
大人の隠れ家ビストロ
ハンバーグとスペアリブ、そしてワイン。
bistro & bar Rocinante Ⅱ
ロシナンテ2世