お墨付きが好き?

歌舞伎は、出雲の阿国が京都の外れの舞台で風流踊り(ふりゅう)……(室町時代の民衆が群舞するもの)を踊ったのが起源とされる。

 

落語は、戦国時代の大名などの側で、様々な話や情報を伝える御伽衆が起源となって始まった。

その流れを引き継いで江戸時代には寄席という舞台で金を取って話す人達が現れたのが起源。

 

お寿司は、江戸時代に屋台で供されたのが始まりで芸者さん達は手掴みは『はしたない』と、串刺しにして食べてたとか…。

 

何れも出自としてそんなに立派なもんじゃなく、庶民の楽しみのモノだった。

その内、『訳知り顔の評論家』を気取った人達があーだこーだとやり始めたからとても面倒臭いモノになっていったと思われる。

歌舞伎など…歌舞く者(常識や常軌を逸脱した変わり者)が語源とされる。

最新の流行を作ったり取り入れて殊更に奇妙を演出する人達が役者だった。

 

何が言いたいか?

 

コレが由緒正しいモノでしょうか?

勘違いして欲しくないのだが、長きに渡って継承されてきたモノに敬意を払うのは当然だと僕は思っている。

その世界の努力を惜しまず繋いでいる人達に僕は、最大限の敬意を払う。

 

問題はソコじゃない。

 

『通とか評論家』という訳知り顔の人間達が、元来庶民が気を安んじて楽しめたモノを難解にし、とても堅苦しくさせている事の滑稽振りこそ問題だと言いたかったのである。

 

格付けを作ったり、それを頼ったりしなければならない人達は…結局のところ『自分の感性・見立て』に全く自信がない人達なのである。

だから『自分以外の何か』にすがりつく。

 

そんな脆弱な美学の持ち主達が、最高の武器と勘違いして頼るのが『権威』なのだと言いたかった。

そんな輩は虎の後ろをヒタスラ付きまとうキツネ君なのである。

 

楽しいか、楽しくないか?

美味しいか、不味いのか?

単純に自分の感性に素直に聞くべきモノを、端から自分を蔑ろにして他者に頼る人達。

 

評論家・通とされる人達を盲信して…グルメサイトに登場する一般庶民の『ミニ通・ミニ評論家気取り達』の稚拙な感性と文章は哀しいモノがある。

何処かで聞いた解説、評論家の戯言、表現の模倣のみで構成されている。

 

その人がどんな人なのか?解読不能で…一言で言えば『ありふれ過ぎている』のである。

大学名と偏差値という権威主義の格式と区分けを盲信して熱弁を振るうマヌケ教師さながらの『自分の感性での区分け』が出来ない?人達。

 

吟味し、味わう力は解説者からは貰えない。

自分の素の感性に澄んだ目を向け素直にその声を聞くしかないのである。

 

不安な時代、だからこそ人の言葉に付和雷同する不様は避けたい。

どうせ惨めで不様なら一番頼りなく感じるけれど、自分の感性の命ずるままに七転八倒しつつ生きて行きたいと思う。