意味不明の

意味不明の不快感に包まれ、急に寒気に教われ身支度の途中で意識が遠退いていき…

こりゃ無理だ、出掛けられない!

それから少しそのままで這うようにして辛うじてリビングに。

 

暖房が効いていたので少し経つと何とか電話は出来る状態になり、会社のスタッフにSOSして病院へ運んで貰った。

 

感染症との事で、強い抗生物質を服用して何とか落ち着いた。

孤独死は想像でしか考えなかったけれど…途端に身近なモノとなった。

 

こうやって人は倒れ、援助を頼む力さえも失えば一人死を待つ身となるのか?…と。

 

それから半年、孤独死関連のニュースに目が行く様になった。

驚いたのは40代50代の人がおよそ20%もいる事だった。

 

リストラ、失職等々の理由で男の場合、急に社会との接点を失うのだとか。

全体の80%は男性が占める理由として語られていた。

大体が無気力となり、セルフネグレクトという自分の困窮にも無関心になり、何も出来なくなるという現象も語られていた。

 

未来に『生きて在る意味』を見失えば生きようとする気力も失われる。

どうせ生きてたって今より酷くなる事だけが確信出来る状況ならば…セルフネグレクトという『緩慢な自殺』を選択する心境はとてもよく分かる。

 

技術的に『仕方ない』ことは多々ある。

しかし『生きて在る』方法はメンタルを含めて無尽蔵にある!という事には思考が向かなくなるんだと思う。

『諦めたら楽だから』だ。

 

ここでもう一回だけ苦しんで見ようとなるには何が必要なのか?

ここに至っても『自己責任』という伝家の宝刀を持ち出す人多く…『冷酷な無関係』で押し通すのが一般常識となった。

 

しかし、その態度が自分を追い詰める強迫観念に繋がっているんじゃね?と思う様になった。

だから立場を変えた時に誰にも頼れないメンタルの持ち主になるんだと…。

 

助ける側、援助を受ける側…と立場を変えて考えて見る。

結果としてそんな孤独死という冷酷を生み出す原因は何か?

 

どちらの立場の人にも頑なな同じ性質のメンタルがあるからだ。

『せめてもの意地』で金縛り状態の弱者と、自分を肯定して見せてくれる材料として弱者の存在を必要とする恵まれてる側。

 

「私は困っています、助けて下さい」と言えない弱者の意地も、「お困りでしょう?良かったら手伝わせて貰えませんか?」と言えない強者の偏狭なプライド。

 

人の命を材料にしてまで突っ張るの?

どうしてもしなければならないのか?その『意地の張り合いゲーム』。

 

今後必要なのは人との競争に勝つという勝利の美学じゃなく、『自ら負けて見せる美学』が共生社会では必要なんじゃないか?

持つ側、持たざる側の負けの美学こそが貧富の垣根を取っ払うキーワードだ。
 
「助けて下さい」には勇気が必要。

「手助けさせて下さい」にも勇気が必要。

人の命一つ助かるならば…その勇気絞り出す価値はあるんじゃね?

 

何よりそれを言える人ってホント、カッコ良いと思うんだけど。

 

助けて下さいを連発し過ぎた僕は…この上どの口を以てして言うのか?

意地なんぞ欠片も無いが…惨めの挙げ句、求めた挙げ句の孤独死ならば仏様も笑って迎えてくれるかも知れないなぁ。