アナログ人は

人は、肉体を持つ以上、どう足掻いても活動の時空間は物理的な制限を受けている。

 

一つの肉体しか持ち合わせがない以上…人は肉体的にアナログ的な制限を受けている。

しかし思考、思索は制限を受けずにその気になれば宇宙の果てまでも瑞々しく思いを馳せる事は出来る筈…。

 

世界と繋がり、思考を格段に広げてくれる筈だった筈のITによるネットワーク。

ところが逆に人間を小グループに細分化し…人が人として認知している数は、向こう三軒両隣レベルに縮小している様な気がする。

 

ネコちゃんやワンちゃんの辛い体験とか悲劇という極めて小さい題材に、何千、何万の人がイイねと打って1日を終える。

イイねの数は人の数というより…記号的に数値、指標としての役割を果たしているに過ぎない。

 

人を人として認識し、脳内に留め置いているのはせいぜい会社とか学校とか学級単位での極めて限られた世界の少人数の人間である。

どんな話題も『限定されたエリアの中の事柄』であり、その世界は他の世界との連関が全く考慮されずに美談やほのぼの話としてそれだけで独立して完結する。

 

逆に狭い世界で無理から人を絞り込み呪詛、イジメの類いに血道を上げる場合もある。

イジメてる方もイジメられてる方も…生きていく世界はその閉ざされた狭い時空間にしかない、という強迫観念にギュウギュウに縛られてしまうのは何故なんだろう?

 

デジタルな情報は、一人の人間の脳に複数の様々な分野のものがリアルタイムで届く。
しかし受け取る人間の『情報処理の仕方』は一つの情報に一つの思考しかない。

詰まり、極めてアナログなのである。

 

例えば犬の虐待問題が届くと『動物愛護』という分母でしか思考処理しない、出来ない。

動物愛に溢れた人間となってコメント、一丁上がり!…それで終わる。

その犬の背景に写り込んでいるホームレス問題や、虐待を生むギスギスした社会環境の背景の問題は全てスルーされるのだ。

 

一つの問題に一つの回答じゃなく、複数の問題から関連性を見出だし様々の推論を思考。

一つの解決の道筋を作り上げる思考をしなきゃ何の足しにもならない。

『コメントを取り敢えずして見ました!』で一話完結し過去に流れ去っていくだけである。

 

要は、圧倒的な量のデジタル情報を、現代人は一つ一つアナログ処理してよりバラバラに分解して一層情報に埋もれた迷子になりながら…何でも『知ってるつもり?』で生きているんじゃね?と思ったのだ。

 

『取り敢えず情報は受信してる』からです。

 

先般、『イン ザ ミソスープ』の中で『何か言うこと』と『何か伝える事』は全く違うのだ!という一文を取り上げた。

同じ様に『何かの情報を受け取る事』と『何かの情報を理解する事』とは全く違うのだ!と言いたいのである。

 

犬にあれだけ優しい人達が溢れてるのに…ホームレスのレスキューなんてSNSでお目にかかった事はなかなかない。

『動物愛護』 の分母で処理すれば恐ろしい数の人間達がコメントする。

 

犬もホームレスも児童虐待をも含む『命の尊重』という分母に拡がらないのは…情報人を気取る現代人の多くが、情報を『エリア限定』してその中だけでアナログ処理してるからなんだと思う。

 

何故そうなるか?

思考がとても『楽』だから…なのでしょう…ね。