感情は

感情は、判断の分母を持たない。

 

瞬間の状況の絵面に対する情緒の瞬間的反応と言って良い。

よく怒りは六秒で鎮まると言われるけれど…恐らくそんなものだと思う。

 

しかし一旦怒りをぶちまけたら『しまった!』と思いつつ、振り上げた拳の降ろし先がなく…俺は怒ってるんだ!という雰囲気を中々消去し難いものである。

 

好きとか嫌いの感情をベースにして人を判断すると大抵読み違える。

好き嫌いをどんな条件で、どんな要素を幾つもってして分析、思考したのか?という判断の分母が非常にお粗末なものだからである。

 

雰囲気云々で人を語る場合も極めて情緒的な判断であり、その分母(根拠)は無いに等しく
思い付きレベルだ。

 

自分の感情だけじゃなく、同様に相手の感情をソコへ並べて考えると…それだけで怒りの根拠はかなり消滅する場合が多い。

尚且つ、今日までの相手との過去の経緯を持ち込むと、怒りは非常に恥ずかしくなりむしろ自分が分が悪かったんじゃね?…なんて事だってある。

 

僕を含めて人は、『怒りの感情』を動員して自己正当化に持ち込もうとする。

すると瞬間的に強いモルヒネでも打ったかの様に罪悪感が消し飛び優越感までやって来る。

 

しかし僅かな時間経過でラリった状態は呆気なく覚めてしまう。

すると怒りはもう出ない。

その怒りの正体は既に見えてしまったからだ。

 

それを放置してると、心地悪い後ろめたさと共に…次に動員するのは『悪うござんしたね!』という僻み根性という流れ…。

凡庸にして愚かな人間の定番の結論の出し方となる。

 

人の価値は一つの問題をどれだけの方面(分母の大きさ)から思考出来るかに掛かっている。

相手の事情、心情、経緯、周囲への影響、これからの予測などなど…分母は限りなく大きく出来る。

 

前編で書いた『寛容』というのはその分母を最大限に広げて思考した時初めて可能となる対処なのだと思う。

それはもう神仏のレベルに近く『汝の敵を愛してる』状態まで昇華しているのである。

 

尻を捲って居直る人、汝の敵を愛するという寛容の人…全く違うけれど、どちらもその決定者が『一番望む形』として打ち出した対処なのである。

カッコ付けたレベルで…汝の敵は愛せないのだ。

 

共依存症的に寛容擬きを大安売りした経験者の僕…。

それは寛容ではなく、『安易な妥協』に過ぎなかったと今なら分かる。

しかしそれを『良いカッコしい』と簡単に片付けられたら異議あり!と叫びたい僕もいる。

 

そう言うならアンタ演ってみ!…と。

ええカッコだけで莫大なカネが垂れ流されていく惨状を我慢出来るか?って。

千円二千円の食事代さえケチって、あわよくばと人に奢らせてるアンタ等に出来るのかい??

 

批判するなら最低限、『自分だったら?』という条件を相手の横に置いてからにして欲しい。

 

当然、自分も斯く在りたいと思う。

凡庸な餓鬼達の批判に嫌というほど晒されたからである。

 

自分なら?と考える想像力の有無。

ソレが餓鬼か?大人か?のボーダーラインだと思う。