寛容のパラドックス

カール・ホパーなる人が唱えた『寛容のパラドックス』

 

寛容な人は不寛容な人に対して無制限に寛容であってはならない。

無制限に不寛容に対して寛容で応じ許し続けたなら、不寛容な人々は寛容な人々を打ち負かし滅ぼしてしまうからである…。(民主主義の自殺)

 

薬物依存症の人に対して、厳罰化で行くのか?社会で支え守るのか。

テレビの議論を聞いていてカール・ホパーさんのこの二項対立の論を思い出した。

 

何故、不寛容は簡単に増加するのか?という理由に「深い思考を必要とせず、カッコ良くて男らしいから」と書いている学者がいた。

 

ヘイトスピーチとかの不寛容論者達を見ていて感じる違和感は…ソコに原因があるんだと思う。

不寛容という彼等の正義には思考が使われてない。

感情的であり情緒ばかりで安普請の正義という感が否めないのである。

 

一方、寛容は女々しく面倒臭い感じがする、だから安易に不寛容に走ってしまうとその学者は言っていたけれど…。

 

今の日本の野党の方々が寛容の徒なのか?不寛容の輩なのか?はさておき、僕には寛容を気取った不寛容の方々に映ってしまう。

彼等は何でもかんでも『民主主義の自殺』に絡めて攻撃しているけれど…ね?

 

少なくとも自分達の不祥事には極めて寛容である事は確かであるが。

 

政治の事はま、よしとして、人の世を生きるに際して…この寛容者と不寛容者の対立が大抵トラブルの元になっている気がする。

ソコにお互いの頑迷と無知が絡み付きなお一層混迷を深めるという奴だ。

 

カール・ホパーさんの論に戻って考えるに、不寛容者は不寛容故に彼等の変化は望むべくもない。

『木の葉が沈んで石が浮く』という理不尽を罷り通さない為には、寛容者達が不寛容者達の行き過ぎた不寛容(寛容者の権利を凌駕する事態)に対して、彼等を『制限する力を持てるや?否や?』に掛かっているのである。

 

無責任に徹して世の中を俯瞰して見れば…とっくの昔に不寛容者達は、寛容な人々の権利を侵害するラインに到達してるんじゃね?と見える。

予定調和の有識者会議、公聴会、官僚達のソンタク、などなど…ついでに右の方々のヘイトスピーチも…ね。

 

不寛容だからカネに専念して邁進出来るからなのか?

何故か裕福な方々に『自己責任論による冷酷』で不寛容な態度が目立つのは、僕が貧困故の僻み者だからなのかなぁ?

何だか負けちまいそうな嫌~な予感もするのですが…。

 

不寛容な方々が貧困者の為に『再分配』してくれる、なんてのは「キツネさんヒヨコさんを守ってね!」と期待する様なもの。

あり得ない話だしなぁ…。