ソノヒトの、アノヒトの

ソノヒトの、アノヒトの中の自分は、当たり前の話だけど自分が認識しているジブンとは違う。

 

自分は都合よく日々アップデートしながらジブンの認識を書き換えていく。

アノヒトもソノヒトもまたその後の暮らしの中で僕という存在の認識を書き換えていく。

 

自分もアノヒトもソノヒトも僕というジブンの認識に確固たる自信を持っている。

そして自分の色メガネを使って見える各々の認識をぶつけ合うのだから…そりゃ上手くは運ばない。

 

誰もがジブンの認識を他者にその様に扱われて、自分のジブン認識と他者の自分に対する認識の違いに怒ったり、悲しんだり、裏切られた気分になったり酷い場合はソノヒトに対する認識を『なんて奴だ!』に書き換えて関係をジ・エンドに導いたりもする。

 

小学校の時から教えられる『相手の気持ちになって見る』という学びは中々習得出来ないやね?…と思うのである。

 

世の仕事は全てそれを基盤に思考され実行に移される。

マーケティングなんて横文字も結局はその『相手の気持ちになって見る』という原初的な教えを基盤にしている。

 

料理もまた同じプロセスを踏まざるを得ない。

 

自分の脳内で自分のアイデアに舞い上がる。

次々と出るアイデアに酔いしれやがて私案となる。

それを深め、意味ある案に出来るか?それが肝となる。

ソコを怠ると単なる独り善がりとなりその案は不要とされ価値のない無駄になるから。

 

アノヒトのジブン、ソノヒトのジブン…違う色メガネを掛けてる人にどうやって自分のジブン流アイデアを素晴らしいと感じさせるのか?

 

自分の中で『究極のジブンという主観と世の中の人達各々のジブンという究極の客観』を何度も何度もせめぎ合わせる。

 

擦り合わせる内に無用の主観は削ぎ落とされ、主観で在りながら世の中の客観視に耐えうる普遍的な新価値として認定される。

主観のジブンが世の中の客観的評価となって完成をみるという運び…。

 

何が言いたいか?

世の中の諸事万端全ては『人の思い』を起点にして始まり、その絡み合いから結論を得ているのだと言うこと。

 

ジブンという主観でなきゃ希少性がない。

それを観念で埋め尽くされてる世の中に持ち出して新しい客観として貰うのだ。

 

大抵の場合、単なる独り善がりのゲテモノとして弾かれる。

それに対して自分のジブンが主観を動員して怒り心頭…なんてのが通り相場。

 

余程、自分の主観のアイデアに惚れ込み愛してないと世の中に追試や再試を受ける気力を維持できないのである。

 

あなたは…何処まで自分に惚れていますか?

僕は…ソコに甚だ自信がない。

いい歳して悪戦苦闘してる自分がついつい嫌いになる。

ジブンを動員しては、「えーい世の中!世の中のバカ目が!」と誤魔化しに入るのだ…。

 

自分は自分を愛しているのか?嫌っているのか?

定かではないが…どうであれ自分を見棄てる事は出来なくなった。

しかし、それも自分が大バカモンなのか?自分を誉められる事なのか?

…今もって確信を持てないでいる。