イン・ザ・ミソスープ

久し振りに村上龍の『インザミソスープ』を読み返した。

 

どんな具材であろうと『適当に馴染んで曖昧』にしてしまう味噌汁。

没個性に徹して人に合わせ馴染んで見せる国、日本。

曖昧に何にでも馴染む味噌汁を日本に見立てたストーリー。

 

アメリカからやって来たフランク。

肉食系バリバリの国から来た彼は曖昧模糊とした返答を許さない。

何かを言いたそうな態度のサラリーマンも女子高生も容赦なくフランクに殺されていく。

 

『何か言う事と伝える事は全く違う!』…その一節に彼の苛立ち全てが込められている。

 

能天気な日本に対する村上龍からの警告本とでもいえるストーリーだった。

その甲斐もなく、現在の日本は曖昧なまんまアメリカ追随以外にこれといった意思表示なく…今や国民は意志を持たないことが唯一のリスクヘッジとなってしまったかの様な国になった。

 

それをどうのこうの言う気もなく指摘する事に意味があるとも思えない。

良くも悪くもそういう風景になったという事だけである。

ただ一つ確かなことは状況がどうであれ、何かを決めて行うのは個人、その人なんだということだ。

 

僕は…解らない事は解らない事として生きていこうと思う。

解らない事を『無かった事にする』人間には絶対になるまいと思っている。

解らない事は解らない事、と自分の意識下に置いておくことがポイントだ。

ソレが単に生物学的に生存しているんじゃなく、『自分を生きる』為に譲れない最低限度の一線だと感じる。

 

僕は、自分に解らない事がある事を知っていてそれを思考しているという点において意志を持っていると言える。

詰まり『我は思っている。故に我は在り』

…僕は僕として生きているのである。

 

きっと村上龍は怒ってたんだと思う。

意志を持たずただ浮遊し漂ってる大衆を呪って書いた様な文章だ。

ずいぶん前に書かれたにも拘らず、本気の言葉には未だに衰えぬ殺気が漂っていた…。

 

このインザミソスープの後に書かれた『希望の国のエクソダス』は村上龍の希望というよりは妄想に近い願望だったに違いないけれど…。

残念だけど、革命を起こす中学生達はこの国には登場しなかった。

 

現実は、彼等の親の年代の曖昧さを純粋培養したアンドロイドの様な従順な子供達であり、今や中年となり老後資金の積み立てに余念がない。

彼等は、若い内から無事に死ぬ為の準備だけに一心不乱に日々勤しんでいる…。