穿った

とても穿(うが)った見方だけど…イケメンの不倫騒動を責め立ててる人達、ホントは彼等が羨ましいんじゃね?と感じるのである。

 

何時か書いたけど、売春婦に大勢の村人が「この売女めが」と石を投げ付けていた。

ソコに通りかかったキリストが言う。
「汝等の中で心の中で邪淫を為したことなき者のみ、この女を石もて打て。」と。
村人は皆、一人残らず手に持っていた石を落としました…とさ。

 

心の中で同じ欲求を持つことと、それを現実に行う事とどう違うのか?

お前達も人間的として彼女と同じ穴のムジナである…というキリストの指摘。

聖書にあるエピソードです。

再三、聖職者とされる中高年の教師による淫行、破廉恥事件について言及して来たのは…聖職者であれ売春婦であれ、皆、醜悪で野卑な部分を心の中に抱いている。

それが当たり前の人間なのだと言いたかったから…。

 

そういう事例は『私はキレイで立派な人間』として生きて、自分の中の汚物の様な部分と向き合わなかった人達の悲劇なんだと思う。

 

ご立派族として自らの貪欲な欲望を放置したままに生きて、その毒に免疫がない。

本当の自分に振り回された結果なんじゃないか?そう思うのだ。

 

自分をさておいて、上から目線の『ご立派族達の他者批判』はその人達の『薄っぺらい醜悪さ』を嫌でも表出させる。

当然、良いことじゃない。
しかし、日本国民動員して連日マスコミ挙げてひっぱたくほど下劣な話では無いんじゃね?

ふとした隙に…自分も踏み外すかも知れない『自分と同類・同質の人間のミステーク』に過ぎないでしょ?…と。

 

目の色変えて、ご立派正義を唱えてる人達の『ご都合ご立派』の姿こそが…醜悪にして下品に見えて来るから不思議である。
ご立派ってのは演じるモノじゃなく、その人の身体の芯から滲み出てくるものだから…。

 

自分は立派じゃない。

それどころか、何て醜い心をしてるんだろう…という自己認識が自己改善の為の起点となるのだと思う。
だからこそ『自分上達』の為のテーマが見えてくる。

そういう運びなのだ。

 

今回の件、自分の心で一番大きくざわつき蠢(うごめ)いた のは…

あんな可愛い娘を。何て羨ましい事をするんだ!東出の奴!…だった。

その事を僕は誤魔化せないし誤魔化す積りもない。

とてもとても彼の奥様のご心痛までは心が回らなかった事も合わせて告白しておきます。
そんな『悪徳を行うテクニック』として彼は余りにも稚拙にして無防備だった事は確かだけど…。

今現在を彼と同時に生きている悪徳三昧の同じ穴のムジナの僕としては…一方的に100対0で彼を責め苛む事は出来ない。無理がある。
そんな事をすれば自ら勝手に恥ずかしくなって顔から火が出るに違いない…。