決して

決して…懐古趣味としての話ではなく、自然派賛美する気もないとお断りした上で。

 

食も遊びも、あらゆるモノが全てのコトが人間の意識の進化スピードを越えて供給過多状態となって久しい。

コンビニに行けば下手なレストランを凌駕するメニューの数々がある。

 

ふと気付けばメニューを選んでるんじゃなく『選ばされて』いる。

ゲームも遊んでるんじゃなく『遊ばされて』いるんじゃね?と思った。

 

比較検討してる余裕もなく、次はコレがソレがと押し寄せて来る。

『自分で考え』、『自分で決定する』んじゃなく、2時間3000円の枠内で、『絞り込んで貰った』メニューから『選ばされる』といった風情での飲み食い。

 

自分でメニューを組めない人が圧倒的に増えている気がする。

若い人がやって来て、ハンバーグ二つとライス二つ…それだけで食べて帰っていく。

数学で言えば、数式を作り組み合わせて解いて行くんじゃなく、予め用意されたマニュアルに沿って次々与えられる公式をひたすら当てはめて答を貰っていくといった感覚だ。

 

昭和の最後半から平成前半迄の人間は、自分でメニューが組めていた。

だから尚の事、与えられる『選べる事』の数と『味わう力の深さ』との『反比例関係』を痛切に感じるのである。

 

結局、選択の数の増加は…一つあたりの味わいを浅くさせていて『数と味わいを掛け合わせて得るモノ』は変わらないんじゃね?…ということに行き着いたのだ。

 

どんなに『利便と選択する分野』が増えていこうとも、一人の人間が得られる総量は変えられない。

 

上から目線で言うんじゃなく、ITに常時触れ『与えられる事』に慣れた人達は、自分の知識で考えられなくなっていて…迷う間もなく『そこら辺の誰かの考え』を素早く覗きに行く。

ウィきってググらされている。

 

結果的に彼等は『何故?どうして?』を知らないまんま『そういうものらしい』で生きて行くのだ。

 

風説、風評、流言、飛語、噂の類いの使い方に似ていて…得た結論に確信とか覚悟を持つに至れない様に見える。

自分の部屋をどの様に飾るか?さえ、同じ素人の『人を多く集めてる人』のサイトを覗く。

そして何の疑いも疑問も無いまんまコピーするのである。

覗かれるユーチューバーも入れ替わり激しく、あっという間に消費され使い古される。

 

学生の年代の『学校の人気者』に憧れ、同じ様に…とマネをする感覚が大人になっても何時までも続いているといった風情なのだ。

大人になれば学校の人気者には無い様々の人間的魅力を発見し、気付いて価値観は多様化し

人は熟成を果たして大人になるんだけど。

 

隣をチラリと覗いて確かめながら自分のこれからを決める。

 

『自分の個性』はそんなの拒否るから逆に厄介だ!とばかりに『人との違い』の封印に躍起となる。

端から人々から外れ、はぐれている本来の自分の個性を定型に押し込んで無個性に矯正しなければならない。

そうしないと『危険であり不安』に苛まれる事になるからだ。

 

違いを許さない容赦の無いイジメを見て育っているのだから彼等を責める訳には行かない。

この若い世代を育んだ大人の世界。

それをそのまんま鏡となって映し出してるのが若い世代のこの惨状なのである。

 

『程々…』に生きる事に帰らなきゃ、と思う。

 

利便半分不便半分。

不便は人を思考させる。

自分を早々に見限ってしまってる人は多いけど…あなた方を必要としている人はこの社会に多くいるのだという事実を教えて上げたいと思う。

 

僕は…僕の為だけに今を生きている。

でも、何時の日か僕を必要としてくれる他者に出会える事を疑ってはいない。

最低限、僕が僕を必要としているのだから見限るなんてとんでもない話なのである。

 

自分の事を『自分で考える必要』に気付けた人は幸せなのだ。

自分を必要とする自分さえ居れば…インフルエンサーなんぞ全く不必要だと気が付く。

 

自分の必要とするインフルエンサーは自分自身の欲求なのだから。