経験値が

経験値が上がると相手の目的の『狙い・運びの意図』が瞬時に透けて見える様になる。

これもまた良い面と悪い面両方ある。

人と会う事に無用の期待とかあらぬ妄想を抱かなくなる点はとても効率的で…無用の落胆を事前に避けられるのはとても良いことだ。

一方、ハイハイまた詰まらぬお願い事とか?人のピンチを揶揄したいんでしょ?とか先に先に出会いのチャンスを切り捨てるという人間嫌いに拍車を掛ける様になったのはとても誉められた話ではない。
何時も後から自分に嫌悪感を持つ事になるのである。

考えて見れば人との接触は広大な砂浜で一粒の真珠を探す様なものかも知れない。
圧倒的多数の無用な落胆を経た後にやっと、たった一つ宝物の様な機会が訪れるといったニュアンスだろうか?
しかし、そのたった一粒の真珠が人生を変えとんでもない歓びをくれる事もある…。

人との出会いはとても退屈で日常的であり、また時として非常に希に、この為に生きて来た…といえる様な非日常をくれる。
だから厄介なんだ。

自分の中に引き籠り自分の計算が立つ世界を生きれば誤算もなく誤解もなく他人の悪意も受ける事はない。

しかしながら『計算が立つ世界』を生きる事は時を重ねる毎に『自己不信・自己疑問』が膨らみ不安が大きくなるものらしい。
それは「自分はこのまんま終わるのか?」…という漠然とした疑問だ。

自分が自分の全てを牛耳り、枠からはみ出させないのだから…そりゃ安全である。

しかし安全だけど全く面白くない。
人を感動させる事はどうでもよいが自分に感動した事がないまんま終わるしかないという事実に…遅まきながらそんな人は恐怖を抱くことになる。

自分の中身を見せずに他人のニュースを貰い歩くしかない人間の事を吉田拓郎は『明日に向かって走れ』の中で唄っている。

 

※ほら  お馴染みの友が来たよ  何か話せよと…だから明日に向かって走れ 言葉をつくろう前に…  

~吉田拓郎  『明日に向かって走れ』の一節

代わり映えしない過去の『何時もの何か』を反芻するしかなくなった人達は憐れだ。
しかし『これからの何か』を求めるならば数多くの辟易とする落胆がセットである。

それでも…過去を生きる多くの人と未来を切実に求める自分との接点なき空疎な時間をイヤというほど覚悟して挑むのだ。

決め付けるととても楽になる。
しかし、楽だけど虚しさしかなくなる。

変わるかも知れない?変われるかも知れない?そんな自分を万が一の模索に求める人は
明日を見るしかない。
明日を信じ走り出すしか無いのだと思う…。