選民と棄民

正月はお笑い芸人しかテレビに出ちゃいけないの?…そんな風情に嫌気が差してNHK教育テレビをみた。

 

世界的に台頭してきた『厄介なナショナリズム』を取り上げていた。

 

ナショナリズムとは『選別である』…自分が条件を決め、それに沿って人間を選別する。そして自分に合わないものを排除する…か。なるほど…。

 

選民と棄民である。
誰からも認証・認知して貰えない棄民。
基準や条件に適合する選民。

 

今、深刻なのはこの国の人々は…自分が国から『選民として選ばれているのか?どうか?』自信がないのだ、という指摘はとても深いと思った。

 

選民としての何かの適合条件を自分に見出だしながらも、確たる自信を誰もが持っていない状態だというのである。

だから、批判に対するエキセントリックな反応と憎悪の醸成が何時もセットである。
そして、何とか相手を棄民側に追いやろうとする誹謗中傷合戦が繰り広げられる事になる。

安部公房の小説の『もぐら』を柱に議論は進む…。

もぐらは採石場後の地下に巨大な『ノアの方舟』を作り上げそこに籠っている。
結局最後に…もぐらは方舟を去り選民側の街に出る。

しかし、『街は生き生きと死んでいた』のである。

何もかもが透明…。目の前に手をかざすと、それを透かして透明の街が見えた。
選民になるということは個のアイデンティティーを失い…何者でもなくなる。
『閉じる死』と『開く死』。その絶望に対する『あがき』こそが人間と言えるものなのか?

論者達は口を揃えて言う。
一旦属してしまったネットのコミュニティから抜けるのは至難の業なのだ…と。
自分を肯定してくれる裏付けを失って『棄民』となる恐怖は中々越えられるモノじゃない…。

根拠のあるなしは関係なく、僕達は声の大きい『断定話法』に弱い。
その大きな声妙に納得させられるのは…自分が選民なのか?棄民なのか?全くって自信がない事に起因しているんだなぁ…と妙に納得したのだった。

『自分の意志に価値』を見出だすか?
『自分の付帯条件に価値』を見出だすか?
ソコが棄民と選民とを分けるんだと思う。
そう思うが…楽じゃねえなぁ?

結局、今んとこ最強の保証は只一つ。

『いつかは死ねて、苦難・苦慮に満ちた自分ストーリーは終えられる』って事だ。
ソコを起点に思考すれば…どうであれ前に進む勇気は湧いてくる気がするのである。

どんなに重く深刻に考えたって妙案なんてない。『なら、楽しく行こうぜー!』的なお笑い番組を流すテレビも…もうかつての覚醒剤の様な効果はない。
『何時もの奴』ってのは何~んも刺激なんてくれないからである。