例えば、スピッツの草野マサムネは『チェリー』の中の一節で黄砂を『夢を渡る黄色い砂』と感性で翻訳して見せた。
チェリーの歌詞を紐解いて見ると様々な解釈がされていた。
何かからの卒業…春、チェリー 、黄砂と僕は理解したけれど。
ここからは一筋縄では行かない道にスタートを切る。
それを僕は『曲がりくねった道を行く…』と表現したんだろうと解釈した。
その解釈は人それぞれだからどうと言うことはない。
驚くのは一つの歌詞に千差万別の解釈が存在するという事だ。
例え手紙でも会話でも本当に相手に「真意が伝わるか?」となれば、それはそれは心許ない限りだなぁ…と思った。
ま、これもまた色即是空のもたらすその人その人の『心次第』同士の誤差だから当たり前っちゃ当たり前なんだけど。
人と人はスレ違い、軋轢を生み、摩擦を起こす。
コレって当たり前じゃね?
みんな自分の見える風景を主張するんだものね。
優れた表現者というのは…違って当たり前の表現を使いながら多くのバラバラの感性の人達から共通の深い共感を得る事が出来る人って事だ。
黄砂という自然現象に、普通なら漫然と見逃す『春の到来』から『新たな旅立ち』という誰の心にも潜んでいる感覚の因数をチョイス出来る感性の持ち主なんだろう。
各々の感性と違う風景の中を生きる大勢の人達の心の底に潜んでいる『感性の共通因数』を拾い上げる力…それが表現力であり、コミュニケーション能力というものなのだと彼の歌を聞きながら考えた。
青春時代に誰もが心の底にヒタ隠している攻撃性を彼は『空も飛べるはず』の曲の中で『隠したナイフが似合わない僕』と秀逸な表現をしている。
臆病だからか?自信がないからか?青春時代特有の自分の中に潜む攻撃性を持て余す感覚をその一語で僕は鮮烈に思い出したのだった。
コレは料理にも内装を思考する時にも必要な能力だ。
『何れだけ深く多くの共鳴』を導けるか?という点においてだけど…。
一つ一つの事に何れだけ他者を圧倒する量と深さで思考し続けているか?
その積み重ねられた思考の力で表現されたものが、人々の心の中で潜在的に眠っているものを日常の中に引っ張り出す事が出来るのだろう。
誰もが心の奥に旬列な体験やイメージを密やかにそっと収め込んでいる。
日々を生きてると…日常の阿吽のやり取りや妥協や打算の埃がそれを覆い隠してしまう。
瞬間的に条件反射的に人の心の深奥までを貫く言葉は、日常と格闘する様な疑問と反駁と悶々とする苛立ちの時間の積み重ねから生まれる。
少しでも妥協すればその言葉の刃を鈍くさせる。
凡庸な人間の常套手段は、その表現を認めず無視や揶揄の態度を決め込むことだ。
そんな人達はついぞその表現に直接触れる事はない。
というか、触れる事は出来ない。
人々が多くその表現に反応し走り始めた時、その人数にこけ脅されて群れに紛れて一緒に走り出すだけだからだ。
そんな彼等の生きる指針となるのは何時も、物事に群れる人の『数』だけ。
僕の店は変わることなく何時もソコに在る。
群れる為にやって来ていた人達がなりを潜め…
『集う』為にやって来る人達がその殆どを占める様になった。
表現する者は…人の感性の信者でなければならない。
そうでないと自分の表現が人の心の深奥に届くまでを信じて待てないから。