何がどうと言うんじゃなく

何がどうというんじゃなく、嫌な体験をした訳じゃなく、物心ついた時分から生理的っていうのか直感的に嫌悪感があった。

 

長閑な田舎で平凡な人達によって交わされる瞬間的な悪意の交換会(?)が、である。


その中身は具体的に分からないにしても、交わされる目線から醸し出される悪意は直感的に嫌悪感を導いたのだった。

 

それは田舎を抜け出すというモチベーションの大きな一つだった。

都会ではないが少なくとも田舎ではない都市に出て来て、その手の悪意の交換会は様々な分野で行われ、人間の生活には必須科目なんだ…と学んだ。

 

どんな田舎でも清廉に事を考える人間も居る。

どんな都会でも悪意を絡ませて事を運ばなきゃ気が済まない人もいる。

 

『話せば分かる』という手法は早々に幻想だと学んだ。

また、妥協も有効な手段ではなく悪意を勢いづかせるだけの悪手だと知った。

 

希に歪んだ人格を努力で克服する人もいるかも知れない。

しかし希にだから自分にそんな幸運は訪れない。

 

様々な散々の経験を通して得たのは『悪意には力がない』という事だった。

 

『どんな時も必ずあなた達はその様に振る舞うよね?邪魔はしないよ!』

という僕のスタンスは、そんなのに構っちゃおれないという忙しさから手に入った。

 

彼等を受け入れ認めれば、悪意という奴は自分に何の影響もないんだと知った。

とても新鮮な発見だった。

仕方ないよね、あなた達は『そう感じ振る舞わなきゃ気が済まない』んだから…と。

 

結果としてそのスタンスは自分を自分にのみ専念させる事になった。

 

僕は新興宗教とは無縁な人間だけど…

宇宙は宇宙の進化に不必要なモノはこの世に存在させないだろう?…と思っている。

彼等も何等かの存在の意義がある!しかしまた僕にも同等の存在の意味がある。

 

僕は自分の意味を追及すべきであり『彼等の存在の意義を考える立場にはない』。

そういう当たり前に気付くのに自分の心的エネルギーをエラク消耗した。

 

彼等の悪意は彼等のモノであり…僕とは無関係なのだ!という事実。

これに気付くと新鮮だった。

 

彼等は今を悪意の風景として見たがる。

僕は希望の風景として今を見たがる。

僕の見える風景を確認できるのは僕しかいない…のだ。

 

右も居れば左もいる。

善意もあれば悪意もある。

親愛もあれば憎悪もある。
一人に一つずつ見えてる風景は違う。

 

ただ一つ…言える事がある。

 

人間は自分の見えている風景の中でしか生きれないという事だ。

人の風景に彷徨い入れば…迷い子となるは必定ということだ。