有所得心無功徳?

『有所得心無功徳』なる言葉について何度か書いたと思う。

何時も気になり、フッと頭に浮かぶ言葉なのだ。

 

『その行為は手段ですか?目的ですか?』

 

どんなに立派な行為でも、何かをそれと引き換えに求めているならそれは『手段』に成り下がってしまう。

 

あくまでもその行為自体を目的として『しなければならないから行った』行為にしか功徳はないのだ(=無功徳)ということ。

 

カント哲学における『良心の定義』と同じ意を武帝に対して説いた達磨大師さんの言葉である。

 

たくさん寺院を建立し、仏教の布教に熱心に努めた梁の武帝さん。

「私にはとても大きな功徳があるでしょう?」
そう尋ねた武帝に達磨さんはケンモホロロに『無功徳!』と言い放ったのだった。

 

どんな善行も善意?に見えても、功名心とか尊敬されたいとかの『見返り』を求めるのは折角の善行を手段にしてしまっている。

功徳なんか有りませんよ!との教えだった。

 

僕は、『してやった!』感満載の善意を何度も何度も受け取ってきた…。

それだけ僕の苦境はクドくて執拗だったからとても有り難かった。

本当に頭を上げる事が出来ない功徳そのものの、信じられない好意にも何度も助けられた。

 

後から、とても哀しくなった無功徳(かなあ?)…そういう、してやった感でとても惨めな思いに陥った経験も多々あった。

 

そんな無功徳(?)に堕した善行は…その人を徐々に不遜にし、やがて「してやってるのに!」となり、必ず第三者の知るところとなるのだった。

 

吹聴と言っては無礼だけれど、そんな苦境は『人に言えないモノ』だから…明るみにされるに従って酷く重い空気にずっと悩まされる事になった。

結果的にそれを聞き付けた関係もない連中までが、やけに居丈高な態度でやって来た。

ついでに彼等のオヒレを付けた非難中傷に悩まされる事にもなった。

 

人の善意を期待しなければならない此方は端から悲しき凡人だから、して頂いた『善行(?)』に文句など言える筈もなく…ヒタスラ『石持て打たれるの図』に身を置くしかなかったけれど。

 

無功徳の風に晒される度に、そんな方の善意(?)にすがった自分のプライドの無さ、浅はかな判断と横着が呪わしかった。

こんな惨めな目に合わされるのなら…と後の祭りの如く後悔しきりの思いに悩まされた。

 

有所得心にとらわれた人は武帝の様に目に見える称賛を求める。

誰かに喋らずにはおけなくなるものらしい。

 

本当の善行者は自分の崇高な行為を闇に隠し、知らん顔をする。

どの人も全く同じ、その立派な慈悲深い心が明るみに出るのを極端に嫌う人達だった。

 

自分が救済された惨め極まりない話を…全く関係ない人から揶揄されながら聞かされる時、日頃の惨めとは一味違う、救われ様の無い虚しさの谷へ落ち込んだ様な絶望感に襲われたのだった。

 

して貰った事とその後の流布による絶望感はどうしても整合性が取れなかった。

いっそすがらず、身一つで悲惨を引き受け痛い目をすれば良かった。

せめて心は救われただろうに…と。

 

少なくとも第三者に安易に洩らす類いの話では無い筈。

だからその人の心は全く見えなくなった…。

 

カネの話もセックス同様…『演る事は同じ』って訳には行かないのだ。

心潤う借金もあれば、心を折ってしまう寄付行為もあるって事である。