日々

日々、傷付き名人選手権でも演ってるんじゃね?

そんな風情のこの国。

 

傷付き名人だから圧倒的にMが多いのか?と思いきや、『傷付き熱演』を注意深く観ていると、否…彼等、彼女等はそのストーリーをもって宴曲にとても『湿度の高い攻撃』に転じている執念深きSなのだ。

 

先ず、渾身の『私は傷付いた!』のアリバイ作りでショーは始まる。

その時の演者は攻撃対象はアウトオブ眼中。

観客に対して用意周到で執拗な被害者演技を繰り返す…。

 

周囲に対して『刷り込みと意図の流布』に集中の体だ。

序章…その『静かなるアピール』の場面で幕は上がる。

 

時の経過と共に、観客の中から『視聴者参加型演劇』だと意を得た者達がナレーターや脇役として舞台上に登場し始める。

攻撃対象となった者は余りの馬鹿バカしさにその流れに取り合う事を避ける。

とても賢明な態度である。

…がしかし、演者、観客が渾然一体となったかの様なその演劇は、継続の執念でも持っているかの様に中々止む事はない。

 

初演からおよそ七十五日経過の後、攻撃対象となった人は何時しか自分一人が観客であり周囲の人間がみんな演者となってしまったその演目がエピローグを迎えた事を知るのである。

 

『悲惨に傷付いた者と大正義に燃える隣人達』という演劇は日々、この国のソコやココ、至る所で上演されている。

 

この被害者演劇は強き者への抵抗なのか?攻撃なのか?は定かではない。

我々庶民は…と言う街頭インタビューで決め台詞の様に語られる『被害者達の声』は予定調和の王道である。

 

多数派として彼等は何時も『何も貰えない』という我が被害を語るけれど、集団の無知とか凡庸の集団の『加害責任』には気付かないのか意図的無視なのか?は解らない。

この国の伝統被害者芸能の謎である。

 

たった一言で傷付いた!と騒ぎ出すその様は、何やらヤ○ザさんの因縁付けとさして違いはなくなった様な気がする。

 

謝ったり改める事を即、敗北と翻訳しそのまま押し通そうとする行動原理はサル山のそれとさして違いはない。

 

阿吽(あうん)の呼吸とアイコンタクトのみで始まる『被害者演劇』。

哀しいけれど最近富みに完成度を増している様な気がする。

 

お隣韓国の『被害者劇』にはまるで抑制が利いておらず…あざとい作為丸見えである。

この国の完成度高い被害者劇にはまだまだ遠く及ばない…と思う。