最近

最近、アルバイトのNちゃんに『読む本』について聞かれた。

彼女は優秀な女子大生だから恐らく、脳内の未開拓ゾーンに違いない…と性的描写が結構ふんだんに書き込まれたゾラの『ナナ』、フローヴェールの『ボヴァリー夫人』を奨めた。
 

彼女は見事に読破し、どちらの作品も最終章の「クライマックスの描き方にヤラレタ!」と感想を述べた。

読んでる途中には、「今は公爵に色仕掛け中です」等と報告してきたりして。

読後に面白かった!と彼女は言った。

 

オドロオドロしい女の部分を自分と重ねて…女には闇の毒々しさがあるんですよね?と言った。

読んでいて、それを自覚したのだと。

 

何故、ヤリチン君とヤリマンちゃんのやりとりはポルノ、エログロ物語となり、これらのフランスの小説が文学となるのか?

文中、どちらも同じ様に激しいセックスシーンが織り込んであるのに。

 

この二つの文学作品の結果は…自分の演っている事に対応仕切れなくなった主人公は同じ様に死んでいく。

自殺、病の違いこそあれど。

 

ポルノ、エログロ小説で、主人公が自分に対して対応不良となって死ぬ事なんてない。

『エログロの成果』を誇り次の獲物に虎視眈々なんてシーンで終わる。

主人公の悩みの主体は専ら『性技の向上』である。

 

こうやってタラタラ書いてるのは…両者の違いを上手く説明出来ないからだ。

 

セックスシーンが片やエログロ小説では矢鱈、性的興奮を高めるのに対して、文学ではセックスシーンで主人公の悩みとか苛立ちが際立って来てソコばかりを考えてしまう。

だから?……何?……。

 

性的表現そのものが目的となってるのがエログロ小説、元始的な性的営みを使いつつ対応出来ない人間の内面的葛藤を表出させているのが文学…なのかな?

 

文学はセックスを『人間表現の手段』としているのに対して、エログロはセックスそのものを表現の目的としている。

 

やっと尤もらしい解答が出た。

 

そんで…そうか、『食い物』は空腹に対して埋め合わせる為の目的そのものなんだな?

翻って『食事』は食い物を手段にしてそこの空間の佇まいとか相手の思考とか季節感とか『その出会いの空間の意味全体』を表現して味わうモノなのだ…と思った。

 

エログロと文学、食い物と食事。

表現するモノの狙いが手段か?目的か?の違いなのだ!

 

だから、両者は全く質の違う表現なのだと思い至ったのだった。

 

「演る事は一緒、同じだろ?」…ヤリチン君、ヤリマンちゃんの居直りの決め台詞に対して、「イヤイヤ、全く違うのだよ!」なんてスカした顔で今度言ってやろうっと。