秋深く

刈り取られた稲穂が乾燥に向かう匂いや泥土の湿り気のある匂い、薄暮に立ち昇る遠くの焚き火の煙の匂い…日没と共に急速に温度を失いピンと張り詰めていく大気。

森から聞こえ来る鳥達の囀ずり…そんな五感を通して季節を感じる事が何時しかなくなった。

 

気が付けば…随分と生物としての感度を失い、カレンダー以外に時の移ろいを意識出来るモノがなくなった。

 

生まれて直ぐといっても良い。

本能的に自分は、自然に囲まれた(自然しかない)環境から抜け出すのだ!と決めていた節がある。

 

泥臭く、汗臭く、貧乏臭く、閉鎖的にして友好に見えて実の所、反目している関係性。

そんな環境を構成している全ての要素に対して、僕は嫌悪感を感じてたんだと思う。

 

都会的で洗練された知的活動?という自分の目指す所と真逆ばかりに囲まれ育った訳だけど…。

 

実際に社会で働いて見ると、忌み嫌ってた自分の出自が自分を作り上げていて、また自分のウリはそこにしかなかったという皮肉に気付かされた。

 

結局僕は泥臭く、汗臭く、貧乏臭い育ちの要素をベースに『都会的』を発想して様々を商品化して生きてきたのだ。

 

都会人とやらの笑顔の下に救い難い孤独や自己不信を見付けたのも、洗練され自立したと映る彼等のメンタルが…俯きながら横目で隣をチラリチラリと確かめ覗きながらヒヨル先や方法論を探しているのが分かったのも、僕が彼等と対極の環境からやって来た田舎モンだったからだった。

 

都会を都会的要素で、田舎を田舎的要素だけでもって表現すると見飽きた観念だけが立ち並ぶ事になる。

 

頭の天辺から爪先までキンキラキンの人工物で着飾ったスナックのママ見たいなオバサンはよく目にする。

また、「貴女、陶芸家ですか?」といった風情のナチュラル素材で全身を覆い尽くし、首からは安普請の自然石を繋いだネックレス、手には勿論『帆布の手作りバック』何てのを持っているそんな自然派・手作り万歳オバサン達もいる。

陳腐だなぁ~となる原因は、その人が好きな要素だけしか認めず受け入れず、自分が嫌いな要素に「何故、嫌いなのか?」というアプローチを一切してないからだと思う。

 

気取って言えば…『自分の思いの愛し方』が浅く薄っぺらいから(書いててちょっと恥ずかしい…) なのだ。

 

好きでも嫌いでもないというのは、心は何一つ動いてない。

嫌いだ!という感情の評価は心が動いている証拠なのである。

 

その、何処が?何が?何故嫌いなのか?…まで 理解しているから『情報化する』んだと思う。

だから、相反する双方向の情報から導かれる方策は深く、印象的になるのだ。

 

塩を知らない甘いだけのあんこは不味い。

甘味を知らない塩味は尖るばかりで、これまた不味いって事なんだろうなぁ。

 

愛されたいばかりの軽薄人間は愛する事を知らない。

だから、無理な要求で安い人間を振り回す事しか出来ない…。

 

ヤリチン、ヤリマン達の人との関わり方が軽薄しかないニュアンスを撒き散らかすのは感情表現が「したい!」という『単味の欲望』だけで出来てるからに他ならない。

 

ふと足を止めてみる。

そして、「自分は何故コレが嫌いなんだろう?」と自分研究して見ると…『自分は何故?この分野が好きなのか?』という理由が深まるから不思議なのです…ね。

 

自分が感じる感情総てには『意味がある』って事なのでしょう。

その解明がやがて『己事究明(自分の存在の意味)』へと繋がって行くのだ、と思う。