伊集院静氏が

伊集院静氏の週刊誌のコラムを読んだ。

 

『一人で生きる』ことに覚悟を持つ事の意義について。

好んでかどうかは別にして、一人で生きざるを得なかった自分と…一人で生きている人達との出会い。

 

何がどう?とは言えないけれど、一人で生きている人には立ち居振舞いの中に『何か凛としたもの』を感じるのだそうだ。

一人で生きている人ほど『一人で生きて行けない事』を知っている…とも。

 

人生の大きな目的の一つに『孤独を知る事』がある。

一人で生きる事はその孤独を知る術となる…と彼は書いている。

何でだ?と思う人は多いと思う。

 

ある程度年齢を重ねて分かった事がある。

 

自分が死ぬ事以外に大きな事件らしきモノは自分には無いのだ、ということ。
過去それなりに一喜一憂した『事件』はあった。
しかしそれは『生の味付けの一つ』として過ぎ去っていく。
        
どう死ぬか?…はどう生きるか?と同義なんだと分かる様になると、嫌でも『自分とは?』という問題に神経、思考は収斂していく。
その時、一人で生きた経験がないと人生が突き付けてくるそのシンプルなテーマを請けて立てないんだと思う。
                  
死が近い床に在って父親は、知り合いが一人死ぬ度に意気消沈し生気を失っていった。
そして事ある毎に僕によく聞いてきた。
       
「なあ…シベリアから命からがら帰って来て、その後必死で生きた自分の人生はどういう意味があったのかなぁ?」…と。
取り敢えず貴方がシベリアから生きて帰ってその後、命を永らえてくれた事で僕達兄弟は生まれ今生きてる。
僕から言えばそれだけでOKの大きな意味があると思えるけど?
        
恐らく、気に入る答えじゃなかったんだと思う。
そうか?…と言って目を閉じて眠りに入っていった。
何時も同じ質問、それに対して僕の同じ答。
何度も何度もビデオをみる様にそんなシーンがあった。
       
仕方ないよね…と思う。
父親はやはり、その質問の答えを必死で探し自分で見付けて納得を得るしかなかったのだから。
                       
晩年、何か記念の宴席で父はその歳まで食べたことがなかった鯛のお刺身を口にしたことがあった。
豪華な活き作り故に気を遣ったのだと思う。
「旨いなぁ…こんなに旨いのか?!」と父は言った。
その後、食わず嫌いのチキンも克服。
ケンタッキーのチキンは大好物となった。
               
今となっては命を永らえた意味はそれだけでOKなんじゃね?とも思う。
チキンやお刺身を嫌いで拒否し続け…最晩年に好物となった時の計らい。
それが彼が彼である理由の一つなのだと思う。
死を待つ床に在ってそれは彼の『大事件』だったかもしれない。
     
一人に一つずつ…生まれて、生きて、死んでいく事の意味がある。
本人が一人自分で見付ける以外に知る手立ては無いのだ。
                   
今夜、何を食すか?
結構大切な問題かも知れない。
読んでいて、ふとそう思ったのだった。