恋と鉄パイプとナポリタン(5)

彼女の死と…

 

彼女の死と全く同時期の1969年 高石友也に見出だされた岡林信康が『友よ』、『私達の望むものは』を発表している。

彼は同志社大学の神学科を中退している。

 

社会主義運動とリンクしたプロテストソングの有り様に疑問を感じて、高野悦子の自殺の翌年に突如失踪し、四年に渡って田舎の農家の蔵に籠った。

 

社会派シンガーのレッテルを貼られた事もかなりの苦痛だったと後になって述べている。

 

労働組合等の社会主義運動の集会で必ず歌われた『友よ』、『私達の望むものは』を高野悦子も唄ったのだろうか?

 

後年、岡林は尾崎豊の死について『26歳の壁』という表現で述べている。

 

自分も失踪したのが26歳。

死にたかったし、死ぬしかないと思った。

辛うじて最後の最後に自分は逃げ出したのだ、と。

尾崎にも逃げて欲しかったと述べている。

 

熱気を孕んでいた世の中の空気が転換した69年、岡林はその運動の何処かに疑問を感じたのだと思う。

 

高野悦子は、その運動の衰退を上手く理解できなかったし許せなかったのだろう。

ピュアな彼女は、それを世の中に裏切られた様に感じたのかも知れない。

飾り 私達の望むものは社会の為の私ではなく 私達の望むものは私達の為の社会なのだ…飾り

飾り今ある不幸せに留まってはならない
未だ見ぬ幸せに 今飛び出すのだ…飾り
岡林信康 『私達の望むものは』の一節

 

古くならないテーマ…社会は誰のためのもの?私は誰のためのに生きるのか?

今も尚、重すぎるテーマではある。