悪意に対する極意・2

およそ大人の世界の事共を責任をもって遂行しつつ生きんと欲すれば…『悪意の応酬』にうつつを抜かす事などあり得ない。

 

何も生産しない、構築もしない悪意なんぞにかまける暇があるのは…その人が責任ある時間を過ごしていない事の証左なのだから…。

 

所詮、悪意で瓦解するレベルの付き合いならば、何時でも何処からでも、別の誰かと直ぐ新たな関係が出来る。

直ぐ出来るからこそ直ぐに壊れるのだ。

 

悪意の発信者の特徴は、自分を誇大広告して殊更に存在感を誇張し、大きく見せるという幻術(?)を使う点である。

 

如何にも怒ってるぞ!さも憤慨しているのだ!といった態度でわざわざ目の前にやって来て演じてくれる。

そこで…『そんな人は見えない』の術の登場である。

一切その人のアピールに気付いて上げないのだ。

 

距離を取り、我関せずの立ち位置で眺めればその本人発の悪意に本人自らが絡め取られて苦しそうだな…というニュアンスが理解できる。

離れて差し上げなきゃ!なる同情心さえ沸き上がってくるから不思議だ。

 

彼等もまた苦しんでいるのである。

心報われぬ日々を悶々として過ごし、そんな自分を悪意によってしか慰められない哀しみ…。

そんな人の閉塞感に気付ければ『悪意による修行』も終了となる。

 

自分の視野に自分と相手が等身大に見える様になったのだ。

客観的に自他共に俯瞰出来てこその大人の立ち位置だと理解した瞬間だった。

 

自分を苦しめるのは相手の悪意ではなかったのである。

その幼稚な悪意に対して憤懣やる方無く乱れに乱れる自分の心の未成熟こそが苦しみの元凶だったという話。

 

自分の悪意に拘泥し執着している人の顔はとても醜悪だ。

そしてまた、それを受けて復讐心の虜になった自分の顔も下品の極み…といった表情になっていたに違いない。

 

そんなこんなを経験して見ると…人の心はとても愚かで酷く醜くて、そしてとても可愛いく愛らしいモノだと思う様になった。

 

『悪意』は苦しい旅をする初心者を慰める…苦役をこなすインディオの『コカの葉っぱ』の様な役目をするんだと思う。

 

悪意を発し人を恨めば一時の慰めとなる。

しかしまた、噛み締めるその悪意に取り憑かれそれに頼り過ぎれば世を憎み恨む拗ねた中毒患者にもなる。

 

悪意は毒にも薬にもなる劇薬なのだ。

自他を問わず…悪意のお取り扱いにはくれぐれもご注意下さいませ。