悪意に対する極意

別に自慢する様な話じゃ無いけれど、悪意に満ちた状況には事欠かない運びの人生を生きてきた。

 

ちょっとした事でもシリアスな状況に直結するのは極小企業の宿命ではあるが…事あるごとに尋常ではない方法ばかりを主張すれば、シリアスとは日常的なお友達といって良い関係だった。

 

嫌悪感レベルの悪意から憎悪に近い悪意まで、人様の様々な負の感情に晒され続けると、何時しか緊張もしなくなり…人の悪意というものに慣れ親しみ、やがては『飽きてしまった』のだった。

 

そんな経験から得た、人の悪意への対処法は『ひたすら無視して放置せよ!』だった。

 

悪意を抱く人は意識してか?無意識か?…自分が放った悪意に標的が『強く拒否反応する事』を求めている。

標的の嫌悪感のリアクションこそが更なる悪意のエネルギーとなり、モチベーションとなるのだ。

 

悪意は瞬間の負の感情であり、それ自体にエネルギーはない。

対象の相手が示す『強い拒絶感、嫌悪感』を見て初めてエネルギーを得るのだ。
悪意は人の心を食い潰す事を目的に放たれ、何一つ価値の構築には貢献しない。

 

悪意の虜(とりこ)になる人の特徴は、そのヒエラルキーは『中位』に属していて『突出した個性』がない。

『多勢に無勢』という図式を好み、絶えずその図式を形成する事に腐心している。

 

悪意は標的に対するメンタルの作用と思いがちだが、実の所は注目を集められない没個性の悪意の人自身の中に巣食っている『常態化した欲求不満の解放』こそが真の動機、目的なのだ。

 

だから悪意への対処法の第一条は、何をおいてもその人から『離れる』事に専念することである。

金持ちと同様にケンカせず、逃げるが勝ちと心得たい。

 

距離を取ったら後はひたすら無視と放置に専念する事だ。

自家製のエネルギー製造装置を持たない悪意は、それで一気に勢いを失して意気消沈、霧散していくのである。

 

悪意自体には根拠も力もない。

悪意に力を与えエネルギーを供給するのは『標的にされた人の怒りの反応』なのだ。

 

その悪意という表現は、絶えず対象となる二人称の存在を必要としていて、一人称の自立を果たした大人の表現足り得ない。

 

悪意を発する人、それを受けて反応してしまう人。

何れも自立出来ない幼児性が色濃く漂う、稚拙な精神表現者であることを知っておきたいものだ。

 

まさに…『汝、汝自身のその心を知れ!』っていう事なんだと思う。