余地の有無

余地の有無が人間を計る大きな要素だと思う。

 

考え方の余地、変化する余地、時間的な余地、新しい事に関する受け入れの余地、妥協の余地…そんな様々な余地。

 

スポーツなどのプレイヤーの場合、今より伸びるだろう余地を『将来性豊か』と評したりもする。

 

タフな交渉の時、相手がその主張を変化させてくれるかも知れない…そんな時は相手の『懐の深さ』等と表現したりする。

 

逆に、頑なに自説を曲げずに同じ主張の繰り返しに終始する人の場合、「食えない奴だ」なんて事になる。

 

「最早、これまで!」の絶体絶命の状態で…「いや!まだだ!」という『これからの対処』の余地を見出だそうとする人は、九死に一生を得るやも知れない。

追い込まれた状況の中で、対処する為の時間と策を捻り出す努力を出来る人はとても魅力的だ。

その大変さを知るだけに、他者が同様の状況に喘ぐ時『チャレンジの為の余地』を『与える余裕』を有している。

 

何時ぞや書いた『正論の暴力』を振るう人というのは、自らが窮地にある場合…対処しようとするモチベーションの余裕、余地を失い、必ず暴発する。

 

『正論の暴力』を振るう人は結局、人生のプレイヤーではないのである。

彼等は絶えず自分にも、他者に対しても『観客の評論』を繰り返しているに過ぎない。

 

様々な余地というものは、日頃の自分の、そして他者への『今以上、これ以上』を模索する『未知を想定する力』から生み出されるモノなんだと思う。

 

刹那という瞬間にポジティブを選択を出来ずして、物事の一連にポジティブに関わる事など不可能なのだから。

 

傍観者としての余裕なんて、『当事者』としてプレイしなければならない緊迫した現場に於いてはせいぜい絶望を導く事位しか芸はないのである。

 

だから、評論家の言葉は詰まらない。

観客の戯言に過ぎないからだ。

 

真実を垣間見る事が出来るのは、当事者足らんとするプレイヤーだけなのだ。

その中の優れたプレイヤーのみが『伸びシロ』 という自分の未開の地をモチベーションの管理下に措いている。

それが『今以上』という余地を生み出すメカニズムなのである。

 

一番苦しい今現在に在って一番楽しい夢を見る力…それが『今以上という余地』を作るのだ。