随分と前に

随分前、まだトランプが大統領選挙の泡沫候補に近い存在だった時。

 

彼は日米安保なんぞ不公平。止めても良い!等と発言していた。

基地反対を叫ぶのは良いけど…お願いします!出ていかないで!となるやも知れない?と書いた事があった。

 

トランプは今、アメリカの本物の大統領となり、安保条約なんぞ破棄しても良い!と貿易交渉の恫喝の手段として現実に持ち出してきた。

 

都合の良い『自分の言えるだけの正義』で理論武装して主張する事の危うさについて例として仮定の話をした積もりだった。

それが本当の現実の話になった。

 

戦争反対!基地は要らない!武力は持つな!…そんな拉致問題や領土問題など『不都合を視野に入れない』綺麗事の主張が…じゃそうします!か?となった時に責任取れますか?という話だ。

 

『当事者感覚』を持たない主張が長い間この国を引っ掻き回してきた事は事実である。

政治に限らず世の中にはこの手の『反対の為の反論の術』が横行してきた。

 

良くしたもので…その発言、責任取れるんでしょうね?という状況が色濃くなった。

世の事情が『論の為の論』を遊ばせておく余裕を失ったからに他ならない。

 

そこかしこで現実の強風によって、ポーズや虚飾の衣が捲れ『馬脚を現す人達』が目立つ様になってきた。

しかし、ザマア見ろ!…とは思わない。

そんな弱い人間達の醜さを遊ばせておける位の世の中が丁度良いんじゃね?と思うのだ。

 

人間の愚かさを、醜さを、無教養を…しかめっ面しながらも甘受しておける社会の余裕を取り返せたら良いな?と感じる。

 

どうしても…世の中の富は限られる。

分配の仕組みを変える以外に手立てはない。

するとまた、富める、奪う側の正論が音量を増すだろう。

自己責任だ、正当な努力の報酬だ!…と。

出来ない人を庇うのは悪平等だとか何とか…ね?

 

成る程、ならばその主張押し通して下さいな。

 

弱者の溜め込んだフラストレーションが時折現実に吹き出し、簡単で単純な動機が人命を奪い始めてる。

しかし、それもまたそんな社会を肯定し続けた人達の『自己責任の結果』なんだよね。

人の、弱さ脆さを考慮に入れない『力の論理』の主張もまた…その論の行く末の責任を引き受けさせられるのである。

 

僕は今、そんな世の中の直中に在って『自分の出来る事』だけに傾注しようと思っている。

自分に出来ない事を語れば、全てエクスキューズへと流れてしまうから。

 

せめて自分の事は…自分のせいにして人生を過ごしたいと思うのだ。