無思考 まとめ

それは結果論だ!という反駁がある。

しかし、その消え入る様な呟きは圧倒的な数の凡庸な群れの怒りに掻き消されてしまう…。

 

事のプロセスの事情をバッサリ切り取って、結果の上澄みを無思考のまま批判する。

結果論は無思考という凡庸の極みである。

 

この国にかつて『非国民!』という大正義が罷り通り…その一言は大抵の国民を沈黙させた。

人の一瞬を切り取り、有無を言わせず断罪してのける凡庸な人達の典型的な悪魔の振る舞いである。

 

無思考で『何故?』を持たずに生きると…とても楽な大正義の代弁者が出来上がる。
ベッキーの不倫をワイドショーを通して裁いた数多くのそんな『正義の代弁者達』もいた。

 

そしてまた今現在、この国は事の後に結果論を以て凄くキレイな大正義で人を裁くのが当たり前となった。

不都合な現実は、事の次第(プロセス)は関係なく『分かりやすい犯人』を必要とする。

『自己責任』、『自助努力』、『出来る人達の権利』。

そんな大正論の刃を掲げて『分かりやすい犯人』に振り下ろす。

 

異常な殺人という結果とその犯人。

そこを目掛けて凡庸な悪魔達の攻撃が集中する。

その異常な出来事は『何故?起こったのか?』という原因に光が当たる事はなく、世間はまた次の正義に向けて先を急ぐのである。

 

あの大虐殺の呪うべき犯人、アイヒマンを捕らえて裁いて見れば平凡で凡庸な『普通の人間』だった…。

 

そのアイヒマンを『無思考で支持した』大多数の『凡庸(無思考)な悪魔』達。

その国民の罪こそ裁かれるべき事の本質だったのでは…?

ハンナ・アーレントの指摘は、安易な正義の代弁者達の胸を深く抉るのである。

 

パスカルの『人間は考える葦である』の正確な意味は今も分かってはいない。

しかし人間が『思考する事』を止めれば単なる其処らに生える葦に過ぎない事は分かる。

 

先日、会社員の一団が遅くに店にやって来た。

「この店は凄いよね!ほら!Googleで検索してここ見つけたんだけど…評価の平均が4・4もあるよ。こんなの珍しいんだよ!」…。

 

彼は帰るまで、ついぞ自分で味わった筈のウチの店の感想は聞かせてくれなかった。

内装や味や雰囲気は考察の外…。

 

過去にここに来た『みんなの評価の平均』によって彼は「凄い!」と判断してくれたのだった。

無思考はその人を透明人間に仕立て上げるのだ。

僕達はITの進化によって、ますます『実感と思考』を手放している現実を『考えなきゃいけない』と思う。