『自由』を若い頃から生き方のコンセプトにしていた気がする。
それは『自由気まま』的な幼稚臭い自由だった。
当たり前の話だけど、全て人の影響を受けない自由なんて何処をどう探してもありはしなかった。
何をするにつけ『他人の意向』というものが自分の希望とするものを制限した。
唯一『自分の想い』を発揮させる事が出来る『人に惚れる』ことにしても実現には先ず『相手の気持ち』が当然あるし、諸般の事情って奴もある。
正にこの世は自分が『思うのは自由』なだけなのだった。
如何に優れている!と自分で舞い上がろうと、
ヒト、モノ、カネの事情が整わなければ『実現する自由』は絵にかいた餅に終わる。
心外だったのは『ここさえ突破すれば!』の正念場で、自分の前に立つ交渉相手は、決まって余りにも無理解で、自分の凡庸を武器と勘違いしてる様な人間ばかり。
ソレに腹を立ててお膳をひっくり返すのか?
自分に我慢を言い聞かせて馬鹿に成りきれるか?
そんな試験を受けてる様な気がした。
そんな障害となる人間に従順に従うのはとても難しかった。(今も全く変わらずだけど……)
でも、そこで生じるアクシデントは必ず自分が原因だった。
抑え切れない己の『怒り』が火薬で、『下手なプライド』が導火線となった。
実現したい夢、目標を「そんなチンケなモノと引き換えたんですね?」
そんな天の声を後になって何度聞いた事だろう…。
根拠のない『チンケなプライド』は、詰まらない凡庸な人間(自分を含め)ほど強いことをそんなこんなの経過で遅まきながら知った。
そんな人達もまた好き勝手に『凡庸で在ることの自由』を持っていた。
自分が自分の今の凡庸を越えたいとする自由を要求するならば、人々の様々な『今のままで在りたい』という自由もまた受け入れ尊重しなければならない…という当たり前の話だ。
その当たり前の話にトラブルをおこし、エネルギーの大半を費やして生きてきた気がする。
しかしながら、最近やっとそんな無駄の繰り返しを通して『自分の当たり前』と『他者の当たり前』は全く違う事を理解出来た。
(ま、思い知った…)
下手な目標を掲げた以上、チンケなプライドは消せ!
チンケなプライド大事なら…何かを成し遂げ様なんて妄想するな!
チンケなプライドの保有者は、新しい何かに一切チャレンジしない所に自らの強みがある事を熟知している。
『前例と慣習』だけが自分の守護神なのだと彼等は知っているのである。