何度か

何度か書いてきたけれど。

 

「少しでも元気を与えられたら…」なんてセリフを吐くミュージシャン達に如何んともし難い違和感を抱いてしまう。

 

そんなミュージシャンが歌う曲の何処にそんな裏付けがあるのか?

自らを疑う事のないその自信、いったい何処から来てるの?

自己疑問を持たない、人も作品も上っ滑りで観念的、安普請の美談擬きに堕してしまっている。

 

苦難の只中に在る人達に向けられるマイク、そんな安普請の予定調和美談の一翼を担わせる番組制作側の志の貧しさもまた浮き上がるのである。

 

陳腐にして醜悪、その安直な理解。

 

そんな世の中で、『即席で勇気を貰う』儀式が横行する様になって久しい。

 

『大丈夫!』、『きっと…する筈』、『僕は君を守りたい』、『飛び出すんだ!明日へ』…。

?、?、?…。

 

ふと立ち止まって聞けば、何~んも実感と中身のない言葉の羅列が催眠術を仕掛けて来る。

中坊の生徒会長選挙の立候補演説みたいな根拠を持たない言葉が、大人達の中で当たり前化してる。

 

悲惨な大災害をサバイバルした命が、その後の平穏な一日に自殺を選ぶ事の無慈悲極まりない時の流れ、その仕打ち。

そんな命の失われ方を横目に、無感覚に傍観者を気取る僕達は心の何処かが、心の何かがおかしくなってるんじゃないか。

 

僕達は『疑う事を忘れた』んだと思う。

 

目の前の食べ物一つ、自分はホントに望んで食べてるか?

自分はホントに納得しているのか?…と。

 

今夜何を食べるか?はグルメサイトの『イイね!』の数が決めてるし、良い映画か?は全米で何人の人が泣いたか、なんてキャッチフレーズが決めている…。

端から自分を当てにしてないパワースポット巡りに血道を上げながら、面白いTIKTOK動画のチェックに余念がない。

 

何故?「それ私も知ってる!」と言わなきゃいけないんだろう?…なんて考えない。

 

そんな一切疑う事のない『そういうモンだ』が世の中に溢れている。

 

そんな世の中に、テレビのCMさえも言っている。

『ソコに愛はあるんか?』って。

 

取り敢えず何を置いても先ず、あなたは自分自身を愛していますか?

愛すべき自分であるか、疑っていますか?