わだかまり?
わだかまりじゃないし…鬱屈とも少し違う。
しかし、断じて卑屈ではない。
当然憎悪でもなく僻みでもない。
時が導く運びに『不可解』としか表現出来ない…様々な感覚のオリとでもいう様な了解し難いシコリが心の中に宿り、そのまま何時までも居座る事がある。
理不尽ならまだまし。
理解の範疇に入れられない狂った運びに立ち尽くすしかない事が希に起こる。
端から理屈に合わない、そんな想像しようが無い状態は手持ちのメンタルでは処理不能だからシコリのまま留め置くしか手はない。
しかし人のメンタルは弱いだけじゃなく、『学ぶ』という強さをも合わせ持つ。
そんな理解不能のシコリさえソコにあるのを何時しか当たり前にしてしまう強い心。
その弱くも強い心は、気付けば長い時間の運びを自分の味方に付けているものだ。
短絡的な一喜一憂で波打つことも無くなり、日々を淡々と過ごせる心情に気付くとき、イチイチ他人にご披露する必要の無い『自負心』を何時の間にか手に入れた事に自分で驚くのである。
そんなシコリを生んだ状況の説明に、憎き他人を動員しては自分を慰める。
卑劣な他人を用意しては、聞かれもしないのに一人自分の正当性を自分に説明したりもする。
かつての一人相撲の地獄の日々…。
しかし、自負心に気付く頃になるとその原因となった過去の状況の説明から他人は居なくなり、自分一人が状況の隅々を探検しては発見を持ち帰り自分に報告する様になる。
自問自答って奴だ。
問題の原因全てを『他人に押し付けていたこと』を七転八倒しながら、やっとの思いで『自分の手』に取り戻す。
その作業が始まると終わりが見えないし、終わらせる訳にもいかなくなる。
原因と結果を往来する一人きりの心の旅。
その『解明の保証がない』苦しい筈の精神活動を楽しみ味わい深いモノに変えたのは自負心の仕業だろう。
そして、そのシコリの謎が解かれる時は…突然訪れる。
それは『考え至る』という頭の中での出来事じゃなく、何やら天からカギが落ちて来て目の前の扉が開かれたといったイメージなのだ。
そうか!自分がその問題の創造主だったのか。
勝手に思う、あらぬ期待という奴だったのか。
期待のペンキで塗りたくってた相手を、現実じゃ違うじゃないか!と腹を立ててた自分が見えると…あれほど悲劇ぶっていた自分の姿が、単純で滑稽なナルシストに過ぎなかったという今となってはアホ見たいな答。
泣きたい気分でもあるが、ただ笑うしかないのである。
だから僕は、人の言うことが気にならなくなった。
自分の詰まらなさ、滑稽なおバカ振りは人に言われるまでもなく…とっくに自分がタップリと味わってしまったから。
惨めだった心は、手放しさえしなければ強く冷静な自分の製造元となるのだ。
人は一喜一憂しながら、その場その場で短絡的に決着を付けてしまいがちだけど、『真剣な心』はそんな楽を許さない。
ソコに『真剣な心の価値』があるからだと思う。
自分に対して嘘つきになる自分を止めてくれるのだから。
そうやって時間をかけて初めて人は『自分の本当の心』を知ることが出来るのだ。
泣きなさい!…笑いなさい!…何時の日か何時の日か花を咲かそうよ…♪
加納昌吉 『花』の一節