沖縄、オキナワしてる雰囲気は好きじゃない。
これは個人的見解と断った上での印象なんだけど、やたら沖縄人はオキナワを強調する風潮がある様な気がする。
それをまた本土側の俺たちは理解者とばかりに持て囃す風潮も。
誰だって故郷は懐かしく、愛着だってある。
沖縄人だけじゃねーよ…と。
シーサー、泡盛、エイサー、ゴーヤチャンプルーetc。
ナンクルナイサー!で悩まない県民性?ホントかな?
なんて…斜めに見て好意的には思わない傾向が僕の感覚だった。
それでもバックボーンが『沖縄ならでは!』のメロディとストレートな歌詞のモンパチの『小さな恋の歌』、かりゆし58の『アンマー』、加納昌吉の『花』とかは認めるというよりは歌の魅力に組み伏せられた感じでやられてしまった。
作者のキャラクターなのか、オキナワのなせる技なのか?
この曲達に共通するのは『素直でストレートな表現』、モチーフが『日常の愛』、動機が『シンプルの極み』であることだ。
そしてオキナワのアイデンティティー漂うメロディ。
料理でも日頃、マニアックメニューばかりが目立ちがちだけど、ロングランでオーダーが入るのは日常的な『普通のメニュー』達だ。
その日常的メニューに『深み』を与えるのが作者の個性の力である。
ふと…聴きたくなる、ふと…食べたくなる。
それは『深い日常の味わい』なんだと思う。
ウケを狙っての変化技に走る、そんな『安易な相違路線の人』は多い。
多いから目立たなくなる。
人を立ち止まらせる個性。
一つしかない、人と違う個性は表面的な違いなんかじゃなく、その人の『キャラクター』によって『発掘され到達した深さ』なんだと思う。
愛という『日常の当たり前』を掘り込んで行った三人三様の愛の姿、その在り様。
日常的な当たり前の愛が彼等によって『希に見る深さ』で表現されている。
彼等でなければ!、オキナワの情緒あるメロディでなきゃ!という『必然性』が好き嫌いを超越して支持を集めるのだ。
様々のジャンルが好きな人達が居る。
そのジャンルを越えて聴き入る歌は必ず『優れて日常的』なのだ。
オキナワを意識し、オキナワに拘りながら無我夢中で創作された『愛の歌』は、何時しか沖縄を越え日本中を感動で沈黙させる深さに到達したのだ。
これこそが『グローバル化』を果たしたモノなんじゃないだろうか?と思う。