自信というもの

自信というものを漂わせ、元気いっぱい積極的に取り組み、何時もハッキリした答を打ち出す…なんて人間は対面するととても食えないしメンタルが辟易となる。

 

その態度が実は安普請で都合良く完成されているからである。

 

失敗や挫折を味わいながら少しずつ積み上げられたものは本物だ。

そんな人は殊更に自信を強調しないし、その生きた自分の難儀な道筋を経験しているから己を知っている。

 

「その自信は何処から来てるの?」と問えば良く分かる。

ともすれば不遜に流れるその態度はあくまでも数多ある世の中の一つの分野の業績であり『今のところの経過』に過ぎない。

それだけを以てして自分の存在全般に『万能感』を漂わせて人に向き合うのだから…対する人が違和感を感じるのは当然である。

 

良く言われる謙虚の美学などの話ではない。

『科学的に自分にアプローチ』してないからこそ、この世の殆どの分野に『自分に出来ないことがある!』事を知らないという事だ。

 

自分を科学的に冷静に知れば尊大不遜な態度という『非科学的態度』を取れる訳がないんだけどね。

こういう人種の棲息エリアは大抵、『安定した職業』とされる分野に集中的に分布している。

明治時代に尊敬を集めたであろう職業にもその勘違いは数多く散見される。

 

その自信らしきものの正体は、要するに『人の実力』ではない、『職質と制度』に依存した自信?めいたモノに過ぎないんだけど…。

 

若い時分、そんな輩を見ると「鼻持ちならない!」と嫌悪感を禁じ得なかった。

自分がとても悲惨な状況に在ったからだ。

今も変わらず難儀の中に在るけれど(苦笑い)…怒りや惨めなメンタルには陥らなくなった。

その人の未来の点線が描く予測の軌跡の行き着く先が見える様になったからだと思う。

 

自分に向ける『自負心』は絶対に必要だ。

自信と自負心…とても似ていて全く違う。

 

自分を頑張る心ある人なら未来に対して『自信』なるモノを持っている人はいないと思う。

自分を知れば知るほど小さい自分が見えてくるからだ。

 

自分と向き合い小さく詰まらない存在の自分を知るには本気の取り組みが必要であり、それを知るほどに『自負心』が形成されていく不思議。

自負心は人に向かわない。

自分の中に在って、迷い挫けそうになる自分をがっしりと支えてくれるものなのだ。

 

軽々(けいけい)に人を断じ裁く人が多い。

『モノ言えぬ事情』を抱え込んで沈黙するしかない人もまた、多い。

 

人は皆悪徳を抱え込んで悪徳を犯す。

 

自信家の軽々なる断罪もまた悪徳なのであるが、この両者の悪徳は何が違うか?

責めても自分の身が保全される条件を持つ者と責められても仕方ない逃げ場のない状況に立つ者という『条件が違う』だけなんだけど…ね。

 

両者の『人としての悪徳』の違いは、自信家の『自覚ない自分の身の程』とモノ言えぬ人の『思い知らされた自分の身の程』だ。

 

悪人は自分の悪徳を学ぶから『悪人なおもて往生を成す』と親鸞は言った。

モノ言えぬ苦境に喘いでいる人は、トコトン卑小な自分の身の程の勉強中なのである。

 

出来ることは、「学べる限り学ぶしかない!」と覚悟を決めて前を見る事だろう。

自信家の『勘違い振り』に気を留め置く余裕などないのだから…。

 

どんな時も、見るもの聞くものを通して自分を見続ける事が大切なのだ。

身の程を知る旅を続ける事、それが何時の日か己事究明へ辿り着く手続きの筈だから…。