何故?を

何故?を考え続けると絶えず思考が手探りを続ける様になる。

 

そして偶然手に触れたモノがその『何故』を解く鍵だったというそんな体験が何度もあり、『求めよさらば与えられん』は本当だと思う様になった。

 

僕の何故なんだ?に対して与えられた解答への糸口…それがムヒカのリオ会議でのスピーチだったり、トマ・ピケティの21世紀の資本主義だったりした。

 

どう生きるか?は究極、どう死んでいくか?と同じテーマだと僕の思考は行き着いた。

生きて在るこの世は、一体どんなシステムで回ってるんだろう?となれば、資本主義・市場主義経済というものを考えずには済まなくなったのだった。

 

そして出会ったムヒカの『経済成長限界説』とも言える卓見は随分と僕を楽にしてくれた。

トマ・ピケティは「資本主義って限界じゃね?」という自分の直感を理論的に整然と説明してくれた。

 

働くという意味はソコにあった。

労働は何故?という思考をする為の土俵みたいなものだと知った。

 

何時だったか生理的にムカツク言葉『元気を貰う』について…僕は「元気は貰うモンじゃない!自分で出すモンだ!」と息巻いてコラムに書いた事があった。

今日買った『週間ポスト』の記事で自分のその感覚は正常だったのだと確信出来た。

 

興福寺の貫首である多川俊映師がその誌面で全く同じ事を述べていたからだ。

元気は輸血出来ない。

元気とか勇気とか感動は人から貰うモノじゃなく自分の中で作るものである!…と。

 

自分の無理のない本心の部分で感じる生理的な痛みの様な感覚…何故?という信号は手放さず自分の内に抱え込んで温め続ける事が大切なのだ。

自分の奥深くで感じる何故?は時間の巡りの中で必ずその解答に繋がるものと出会える。

 

自分は『何故?』不利益しかない立場を、自分で求めたかの様な無様な生き方で今も人様に迷惑を掛けながらも続けているのか?

その解答の糸口見たいなものも、そのHな写真満載の週間誌の中の記事から見えたのだった。

求めて与えられた小さな体験…である。

 

独り善がりのエエカッコなんじゃね?…と何時も自分に付きまとった思い。

それを払拭してくれそうな一冊の週刊誌の記事について次編で書こうと思う。