ひとりに

一人になった時にふと感じる憂鬱を暗愁というんだそうな。

 

五木寛之さんの著書で知った。

確か蓮如に関する本だったと思う。

根本に人間は必ず死ぬという絶望を知っているから感じるモノだと…。

 

彼は、その暗さを大切にした方が良いという。

その『本当の暗さ』と向き合う事が本当の明るさをもって生きる事に繋がるのだと説いていた。

逆に本当の辛さ、暗さを知らぬ者に本当に明るく生きる事は出来ないのだと。

本物の明るさは絶望の暗闇を知り、そこから反転した者からしか生まれない。

 

確かにそうだ!と思う様になった。

 

無理やり作った明るさとか陽気さはそれを演じる者、それに対峙する者を酷く疲れさせている。

それを掻き消すのに更に明るく陽気に騒ぐ。

しかし、殊更に楽しさを演じる様(さま)には否応なくザラついた虚しさが漂うものだ…。

 

料理と一緒だな、と思う。

殊更な作為には『必然性がない』のだ。

だから素材の本性にたいして不自然になるのである。

素材にシックリ馴染まず、作為の手が付けた味だけが妙に浮いてはしゃぐ事になる。

 

何時?誰が?決めたのか知らないけれど…人は明るくなきゃいけない。

人と仲良くしなきゃいけない。

寂しいのは不幸だ。

落ち込んで考えるのは良くない…etc。

そんな不文律みたいな『思い込み』に支配されてはいないか?

 

そうだよね、その様に出来たら良いよね、位の感覚でその『不文律めいた思い込み』を扱った方が良いと思う。

 

「分かってくれない!」は少年と青年の狭間の時期から始まる人間共通の悩みだ。

それに悩む内は健全なんだと思う。

 

やがて多くの人は人に『分かって貰ってる事』にし、人を『分かって上げてる事』にする様になる。

だからお互いが暗黙の作為に基づく息苦しい演技を必要とする様になるのだ。

 

そうすればシリアスな思いが遠退き楽だ。

楽だけどしかし、そのシリアスな思いは消える事はない。

一人になれば必ずそのシリアスな思いに人は心乱されるのである。

 

自分の本性に添って生きてみる事だろう。

 

生きてる限り消える事のない暗愁。

それが自分の基本要件としてある以上、それと暗~くトコトン付き合う事を受け入れ諦める(明らかにする)のだ。

 

それは暗いんじゃなくて『真剣』なのだと思う。

別に人を遠ざけるって訳じゃなく、自分を真剣に生きてれば人と『仲良くよろしく』を演技してる暇なんてないということ。

 

もし希に、無理せず人と分かり合えたらそれは「奇跡!」と心の底から喜べると思う。

それこそが本当の喜びなんじゃないか?

 

出来もしない思い込みで自分を脅迫してる事が、演技性の偽りの自分に磨きをかけているって余りにも哀しいよね。