比喩だの

比喩だの暗喩だのを文面に忍ばせて直接的な表現を避けようとする事は時に、とても高度な伝え方となる。

そして、時にまどろっこしいハツキリしない優柔不断な印象を与える事もある。

 

余り宜しくない話の場合は…言い方なんかで話の筋が変わらない以上、単刀直入の方がスッキリ伝わる。

回りくどい言い方は相手に苛立ちを与える事にしかならないからだ。

 

結論は一つしかないのに辿々しく何やら事の核心の周辺をウロウロと曖昧な言葉がさまよい、空気は重くなるばかり…。

なんて状況に痺れを切らしてツイツイ決定的な一言を発してしまう…なんて事が若い時分に良くあった。

 

相手の粘り勝ちである。

その途端、事の責任を此方が背負うなんて運びに頭を抱えたりしたことも…。

 

旗色が悪い時に沈黙で押し通す人間は多い。

俗に言う『相手に言わせる』という奴。

卑怯極まりない仕業だと随分と感情を害したものだった。

 

しかしどうやら世の中は、卑怯とか善悪とか道徳観とかより、経済的損得や有利不利がポイントなんだと気付いた時は遅過ぎた。

 

青臭い正義感なんぞは、一時のモノ。

相手は欲しい条件を得たらスタコラサッサと目の前から消えて行った。

獰猛な虎に対して「君!暴力はいかんよ!」とほざくような己の間抜け振りに、後になってから随分と自己嫌悪した。

 

そんな経験から、重大な事ほどシンプルにハッキリと伝える事だと悟った。

それは駄目ですよ!と。

 

卑怯という奴はとても巧みに曖昧模糊とした言葉の余地を自己都合で理解する。

沈黙などはその最たるモノで、後になって「貴方は了解したのだと思った」なんて話になったりもする。

 

卑怯は『言った・言わない』の論争に引き込むのを得意とする。

その論争には何一つ証拠がない。

だから卑怯にとって面目躍如のシーンとなる。

 

以来僕は、釈然としない不明瞭な話をする人との関わりには自分の責任を乗せない事を心掛ける様になった。

 

良い人や良い話というものは、ハッキリとした明瞭さを持ってやって来る。

とりもなおさず何も隠す必要が無いからだ。

 

昔、見るからに金満家のご婦人がやってきて、三時間以上に渡って「あなたの店は素晴らしい。私のイメージ通りだ。ついては私の店も作ってくれないか?」なんて話をした。

しかし、じゃ、何時から?どの様に?と具体的な話になると急に萎むのである。

どうやらこの方は僕をコックにして自分の店を運営させようというのが狙いだな、と見えてきた。

 

貴女はこういう店が作りたいのか?

単に持ち物の空き店舗を誰かを雇って効率良く経営したいのか?

どちらにしてもハッキリ『覚悟が決まったら』いらして下さい、とお引き取り願った。

相手の「あわよくば…」を隠し持ったその話というのは見事に堂々巡ったのだった。

 

そのご婦人は最後になっても強かだった。

『あなたが借りて下さらないかしら?』…あの流暢な褒め言葉は全てその為だったのだ。