何時だったか?

何時だったか…人の本質は、自分が窮した時よりむしろ恵まれ安定した環境に在る時、窮した人間を前にする場面でシリアスに鮮明に映し出されるモノだ…と書いた事がある。

 

そんな時、人間はツイツイ上から目線になりがちで、心ない言葉を発する。

今日、明日の心配に圧倒されそうな人に対して、人間の礼節だの、大体貴方はねぇ?等と説教までかますご仁もいる…。

 

『援助という人参』ばかりが気になる相手を散々焦らし、相手の『惨めの極み』をネチネチやりながら自分の優位を堪能し尽くそうとしているかの様な振る舞い。

 

世に言われる格言は、自分が窮した時にこそ『周りの人達の本質が見える』という奴だ。

経験則で言えばこれはホントもうその通り!である。

 

窮する人間は迫り来る危機に対して焦りながらも、何とか自分のプライドを守ろうとして憔悴しきっている。

あと一歩、半歩で『貧すれば貪す』に落ちぶれ果てるのを、僅かに残された気力でギリギリ踏み止まっている。

そんな時に、自分に対して発せられる言葉の本質は鋭敏に耳に入り胸に迫るのだ。

願いが聞き届けられる、断られるという結果は受けた側に案外と影響は少ない。

 

こんなシリアスな場面では人の偽り無い本質が表出し、その心無い一言は、受けた人の胸の内に深く刻み込まれ消える事はない。

 

自分が味わったからこそ、追い詰められた人の惨めさを知った。

一切のエクスキューズは力を失い、何処にも持ち込めない深い怒りとか後悔とか怨みとかが『ない交ぜ』となり自責のみで心は満杯となる。

 

消えて無くなりたい!…そんな思いを知って、やっと失地に立つ人の心境が想像出来る様になった。

 

それは、自分が無事に死ねる迄に絶対学んでおかなきゃならない人間の必須科目だったのか?

遅過ぎる学びだけど…良かったのかな?と最近やっとそう思える様になった。

 

人間の本質は…本質だから何処かで必ずその人にフィードバックされる。

窮した状態を前に、人は冷たいとか惨めだの辛いだの騒がなきゃならなかった我が身の恥もまた見えたのだった…。