お伽噺は

お伽噺は様々あれど・・・『裸の王様』ほど群衆心理を巧みに表現したものはないと思う。

 

誰もが「そうなのかなぁ?」と思いつつも、良しとされるモノを我先に誉め倒す心理だ。

見たまま、感じたままをそのまま表現したのが純粋素直な少年・・というオチも示唆に富んでいる。

 

昔、田舎の小学校に(一週間のうちに二度三度は必ず目に余る暴力をふるう)独り善がりな熱血漢気分の教師がいた。

彼は女の子であろうと容赦なく引っ叩いた。

口の中を切るのも、鼻血を出すのも日常茶飯事だった。

顔を酒乱の如く真っ赤にして・・・それは教育などとは程遠い、己の感情に振り回されている姿だった。

 

しかし何故か田舎では、彼は『生徒思いの良い先生』として通っていた。

狭い町だから教育長なんぞの覚えがめでたかったから・・・かもしれない。

 

そういう立場の人と話すときの彼は、媚びに次ぐ媚びに終始した。

役所関係の人を前に、教室の暴君から太鼓持ちへ。

子供心にもゾッとするくらいの豹変ぶりだった。

 

今にして思えば・・・町の人々には、そんな風に彼を扱わないと『教育が分かっていない人間』とされてしまう、と感じている節があった。

 

同じように、どう考えても「???」な店が昔からの名店だという評判だけで立脚している場合がある。

素直になれば正体が分かりそうなモノだが、下らない根拠のない評判に気圧されて、声高に「旨い!旨い!」を連発しながら食べている人が数多くいる。

 

「どう思っているんだ!」と暴君が怒鳴ると、小学生の少年少女は決まってこう言う。

「先生は僕の事を(私の事を)考えて叩いて下さったんだと思います」と。

 

彼の担任が二年目の後半ともなると、暴力劇場は誘導と反復によりそんな風に儀式化され、殴られたら誰もが同じ様にその台詞を言うようになっていた。

小学生にして、小狡い小作のジイサンみたいになっていた。

 

最近の学校は肉体的な暴力は絶対禁止。

だけど、言葉と雰囲気、空気による精神的暴力に頼った指導は今も続いているんだな・・と時折、若い人たちの言動を見て感じることがある。

 

彼ら若い年代が学校で身に付けた反省の儀式は、『はい!』『スミマセン』『わかりました』が三種の神器。

それが禊(みそぎ)の言葉だ。

 

己の個性を消し飛ばし、凡庸な村人Aに貶めるのは・・・他人なんかじゃない。

絶えず多数派の視線を探り、恐怖心から理屈抜きで迎合して日和る(ひよる)自分なのだ。

 

他者と競う前に・・・先ず何より自分の恐怖心との闘いを制さなければ、いつまで経っても『自分』は始まらないのである。