十階のモスキート

内田祐也主演・脚本の映画を思い出した。

 

樹木希林さん逝去の報でふと頭に甦った。

うだつの上がらない警察官が転落していく様を描いた・・・何かズドンと心に残る映画だった。

 

着想は内田祐也がモスキート(蚊)を押し潰した血痕が壁にあるのを見つけ事からだという。

俺も宇宙から見ればこのモスキートみたいなモンだと思った、でもね・・・人は刺せるぜ!と、そんなニュアンスだと彼は語っている。

 

独立して間もなく・・・僕の意気がったポーズとは裏腹に、生来染みついていた権威主義とか身の保身第一というような小市民ゆえの小狡(こずる)さが、切羽詰まった状況に置かれた事でいとも簡単に暴かれ剥ぎ取られた。

 

「自分を試したい!」なんて青臭い意気がりは、柵で囲われたサラリーマン牧場で魂を売り渡した羊になった見返りに貰った安全があればこその妄想だった、と気が付くのに随分と時間を要した。

 

遅まきながら、やっと本気になって取り組んだのはそれからかなり後の事だった。

いわば、剥き身となって勝負をこなしていると、『魂を売った見返り』で得ていた安全は結構有り難いモノだったと気付かされたのだった。

 

普段沈黙している羊たちがこちらが弱みを見せた途端、一転して狂暴な攻撃に転じるのを何度も経験した。

 

本能を抑えて従順を演っている羊たちのフラストレーションが集積し、弱った野生の生け贄に対して一気呵成に向かう様は不気味なニュアンスを放つものだ。

普段の彼らの大人しさ故にその残酷さ、惨忍さとの落差がかけ離れて大きいからなんだと思う。

 

結局、自営業だろうがサラリーマンだろうが己の本能を解き放ち生きるのは並大抵な事では済まない。

要は羊で行くか?オオカミで行くか?なのだけど、社会でのオオカミ派の生存率は極めて低いモノになる。

 

エレベーターのない十階に住むモスキート君は、社会の善良な市民達の自覚のない無邪気な悪意に絡めとられていく。

彼に向けられる無邪気な悪意による粗略な扱いが彼を破滅へと押しやって行く・・・。

 

どちらが良い悪いじゃなく、世の中では羊たちの沈黙の裏に潜む無邪気な悪意が、突出しようとするオオカミを四六時中見張り牽制しているのだ。

 

オオカミが語る野放図な野心が羊たちのプライドを大いに傷付けるように・・・羊たちの悪意もまた、その奥にオオカミを瞬殺する猛毒を含んでいるのである。

 

その毒は、個では微量ながら・・・機を見て集まった羊たちが群れとなった時には劇薬として機能する。

彼らの埋まることがない『日常の虚しさ』という動機が放たれると、限度を知らない猛毒の攻撃が開始されるのだ。

 

樹木希林という「羊たちの放つ猛毒の解毒剤」を失った老オオカミ。

内田祐也はそれでも羊たちの毒の漂う荒野を彷徨い続けてくれるだろうか。

・・・そうあって欲しいと僕は切に願うのである。