最高の幸福も

最高の幸福も最悪の屈辱もその瞬間から過去になる・・・。

 

当たり前なんだけど人はその事を忘れる。

報われた!と喜び、死んだ方がましだ!とやけっぱちにもなる。

 

それらが遠い過去の話になれば、喜びも哀しみも過去の思い出のワンシーンとなり

中味はさほど関係なくなるのに、だ。

 

通常の神経からどれだけプラスに、またマイナスに振れたかというインパクトの大きさが

思い出の印象の深さに影響するだけなのだ。

そして、幸不幸の違いは思い出の良し悪しには関係なくなるのである。

 

自分の心がどれだけ「動くか?」と言えば、

リアルタイムでは良くない出来事の方が圧倒的に多い。

不思議だけど後々それが凄く良い思い出となる。

印象深く懐かしい思い出は、たいてい良くない出来事なのだ。

 

加齢してく醍醐味は、その事を知る事じゃないかと思う。

事の中味がどうであれ、後になって心地よく思い出せるか?

そこに重きを置いて過ごせるようになる。

 

目敏く利に動くせっつかれた時間が減り、自分の誇りを優先するようになると・・・

今、目の前の出来事の行く末が粗方見えるようになる。

それはまるで預言者のようであり・・・今、不遇を囲うはめになろうと

『未来を楽しみ』にする事が可能になる。

 

人を憎み恨むと、時間の歩みを止めたまま執着の中に留め置かれるのである。

また逆に、成功の喜びの余り自惚れ高ぶると、何時しかその人は過去の栄光にすがる

『生きながら終わった人』となる。

 

どんな時も今の後には必ず「未来がある」のを忘れてはならない。

宇宙が進化するのは今が未完成で、より完成形の未来を目指しているからだ。

 

執着というのは旅の途中で座り込み、その場の風景を見て一喜一憂し、

歩みを止めている事に他ならない。

その風景は己の人生のほんの一瞬、一部に過ぎないのに・・・。

 

高い山ほど難儀は増す。

登り切り、通り過ぎれば高い山ほど印象深く誇らしくもなる。

厳しい嵐ほど自分の命を実感する。

その実感こそが未来になって自分が生きた証として心に残るのだと思う。

 

今を生きている自分は「死」という未来まで完成することはない。

何とも長く辛くもどかしく・・・とても素晴らしいルールではないか。