不謹慎というもの

不謹慎厨というのがある。

 

滅多やたら人を不謹慎だと責める人達のことを軽蔑の意味を込めて、中坊くらいの至らぬ人達と呼んだのが誤変換して「厨房」→不謹慎厨となったとされる。

 

ザ・イエローモンキーの歌の中で、『乗客(死亡者)に日本人はいませんでした・・・』というテレビのアナウンサーのフレーズに疑問を抱くというのがある。

しかし実際、それを聞いてホッとしている自分もいるのである。

 

実際に災害で友人を失ったときに初めて僕はシリアスに落ち込んだのだった。

それまで死亡者○○人という数の多さによって「大変だな!」と反応していた。

 

たった一人、唯一無二の友人の一つのいのちを失って初めてひどいショックを受けたのだった。

 

その経験あって初めて、災害で見知らぬ人の死に哀悼を感じるようになった。

しかしソコは人間・・・どうしてもあの友人の死のようにリアリティーを以て深く感じる事は出来ない。

 

災害があれど、人に誘われれば食事に出掛け、肉に魚に舌鼓を打って笑い話し、何事も無かったかのように一日を終えるだろう僕がいる。

 

それで良いんじゃないか。

というより、それが人間というものなんじゃないか・・・と思う。

 

同じ「人の死」でありながら、友人と見知らぬ人の死とでは悲しみの深さは格段に違う。

日々、世界中で起こる不幸に「配慮する」なんて、僕の「人の死を悲しみ、慎み深く感じる能力」は到底及ばない。

それは神仏の領域なんじゃないか、とさえ思う。

 

大切なのは、そんな自分を『知っておく』ことだと思う。

自分の冷酷さ、汚さ、罪・・・そういう自分という人間の軽薄な罪深さを知っておくことが「人の道」と言われるものをふらつきながらも辛うじて守り生きてゆくのに必要なんだと思う。

 

それを知っておけば、人様のことを不謹慎などと責めることなど出来ないだろう。

 

自分という『人間の質』を問うのに『他人の事』は一切関係ないのだ。

何時でも何処でも、己に問われているのは『お前はどんな人間なの?』という事ひとつだけなのである。