世の中の熱中

熱中しているのが圧倒的多数の場合、そのコンテンツ云々よりも「皆が熱中している」という事実が優先される。

 

その熱狂が大きいほど短時間で人の興味は消えていく。

ピコ太郎は何処へ行った?

ポケモンGOは何処へ行った?

誰もが標準化された同じコンテンツの中で遊ぶ。

 

どんなデジタルなアプリが出現しても、アナログ代表の竹馬という遊びの寿命を越えることは無いという事実を考えてみる必要があると思う。

 

ゲーム一つ作り出す技術はホントに進化しているのか?と。

江戸時代以前の庶民の遊びを越える普遍性を有し、長い寿命で愛される力のあるコンテンツを作りだしてはいない。

 

僕は進化否定論者ではない。

 

無軌道に無思考で無頓着に「世の中の熱中」に盲従することを危惧しているのである。

「ホドホドという賢明」を手に入れないと、失ってから後の祭りにならないか・・・と。

 

新しいと喧伝される「これからは!・・・」に殺到し過ぎて、地方人達は大型スーパーに走り商店街を失ってしまった。

車に殺到して高齢者から鉄道を奪ってしまった。

買い物難民、移動難民は自らの軽挙妄動の産物だった筈だ。

ホドホドにスーパーを、車を使えば良かったのに、と。

 

それは時間を越える魅力があるか?---その視点で観ると、その流行の着地点はおおよそ見当がつく。

 

人間の評価もまた然り・・・。

 

そういう時間というファクターを加味して、目の前の熱中を思考するという技術が「文化的アプローチ」であり、「節度ある生き方」になるんじゃね?・・・と思う。

 

夥しい数の写真が並ぶインスタの画面を見るにつけ、「映える」という言葉の解釈に『?』と思った。

映えるって、奇抜、奇妙、奇異ってことじゃなかった筈だ。

 

ガッツリとかコッテリとか、皿に溢れかえっている「コ・ス・パ」が効いているとやらのモノ達は、おおよそ食べ物には見えない。

食事全体のバランスを教えられずに育った哀しい人間達の仕業なんだけど・・・映えるらしい。

 

永く愛されるヒト、コト、モノは・・・その奥に必ず自然体の必然性や品性を秘めているものである。

無理から捏ねて作ったものは、人間関係を含めて須らくケバケバしい作為が漂う。

そして必ず時間の試験でふるい落とされ廃れていく。

 

どう生きるか?を考える時、他人とその動向を見がちだけれど、どこまで行っても自分と自分の心を観て聞いてみることだ。

 

これってホントに映えてる?

これってホントに楽しいかい?・・・と。