『知らなかったという罪』について酒井順子さんが書いている文章を読んだ。
「ゲッペルスと私」というドキュメンタリー映画についての論評の中で、イジメ問題の
構造を借りて『傍観者達の罪』について言及している。
さんざんブログで掻いてきた事だけにフムフムと納得しながら、やはり現代の危機は
この傍観者達の層が沈黙と無関心を武器に悪い流れに与(くみ)する事からやがては
雪崩を打って進んでいくのかもね・・・と思った。
うすうす知っていながら意図的無関心を装って長いモノに巻かれていく保身の術である。
ゲッペルスの秘書は、最後に若者に遺す言葉として『正義などは無いのだ!』と言った。
ひとりに一つの正義が必ずあり、「知らなかったという主張」はその正義を盤石のモノと
するのに貢献するのである。・・・つまりその主張は「私は悪くない!」で締め括られる・・・。
人は長く生きれば生きるほど懸命になるか?と言えば答えは否だ。
恐ろしく非科学的にして主観的なる人が多い。
因みにこの秘書の女性が103歳の時にドキュメンタリー映画は撮影されている。
その三年後、彼女は106歳で逝った。
その長い人生・・・一貫して「私は知らなかったから悪くない!」という主張が貫かれた
のだった。
知らなかったから悪くない!という主張は、とても巧みでとても上手い有効な保身の術
だけど、彼女の言うとおり正義などではない。
しかし、彼女がそれだけ頑強に私は悪くないと主張せざるを得なかった「後ろめたさ」こそ
彼女が正義を認識していた証左なんじゃないか?・・・と僕は思う。
『皆に共通する正義は存在するのだ!』しかし、人多くそれを無関心に扱い無知を装って
使おうとしないのだ!正義は時に自分に難儀と危険を導くからだ・・・と僕は若者に伝えたい
と思った・・・。