とにかく、少しでも違和感という奴を感じたら足を止めてその正体を突き止める。
気がついたらそうやって生きるようになっていた。
周りは『モノ分かりが良くなるお年頃』になっているのに、何という体たらく・・・。
そう思えども、一旦、違和感という奴が湧いたらメンタルがささくれ立ってしまって、ソコを解明しなければ我慢が出来なくなっているのだった。
『大人げない』---訳知り顔の人たちはそう言うけれど、僕は・・・違う。
お前らこそ、いい歳こいて生煮えのまんまじゃねえか!と。
要するに結論出すのが怖いんだろ?
例えば、どんなにEXILEが人気があり興行収入が凄かろうと---我慢ならない違和感を僕は持つ。
そして、それは何故だ?と考える。
彼らのそのスタイルにオリジナリティーが皆無だからだ、と気づく。
何かにつけて黒人のパフォーマンスの猿真似でしかない。
ああ、だからアホのニュアンスを感じるのか・・・という風に。
何事も習得は真似から入る。それは理解できる。
しかし、何時しかオリジナリティが殻を破って独自性を主張し始めるものだ。
それがないのは・・・コピーだから。凄く上質のコピーなのだ。
違和感は大抵、大人ぶった態度をとる奴がなぜかオリジナリティを持っていないことによる場合が多い。
「そんなものさ!」というセリフに、己の実体験がない。
いわゆる「イメージの受け売り」の範疇を越えられない言葉しか発せられない、自称『大人』が多いのだ。
理解することと妥協してヨロシク演る事は全く違う。
若い奴が少しでも不機嫌になれば---肩の一つでも叩いて「そんなものさ!」と慰めのエエ格好。
テメエ、何一つ確立してないくせにフテてんじゃねぇぞ!と叱る気概もない。確信も確証もない。
『観念的コピー人間』って増え過ぎ・・・じゃね?
違和感は羅針盤の様に---自分がまともとする方角とのブレを伝えてくれる救助信号なのだ、と僕は捉えている。
他者の百万言の言葉より、違和感一つが自分の確信を言い当てているのである。