写真と・・・

写真と噂話は似ている。
写真はファインダーに映るモノを正確に切り取っている・・・。
しかし、旅行雑誌に写った別荘や有名な代官山のアパレルショップを実際に見た時、それが全く「違っていた」のだった。
何故だ? 僕は原宿駅から竹下通りに降り立った時、なるほど!と気がついた。
写っている対象物は寸分違わず正確に映し撮られているけれど、日常の生活感が染みついた道の両側の安っぽい商店や軒先のポップなんかがスッポリ「切り取られて消されている」のだと。
代官山のおしゃれなショップも---周囲の退屈極まりない古いビルやテナントが沈滞した空気を放っている---それらがスッポリ「消されていた」のだった。

そのショップの周辺を僕の頭が勝手に想像力を膨らませて「おしゃれな街を創っていたのだ!」と解ったとき、本当に笑ってしまった。

テレビや雑誌が伝える「東京の街」を田舎モンの僕の頭が、イメージを膨らませるだけ膨らませて想像の街を創り出していた---。

写真も噂話も、その中にほんの一部だが本当がある。

その周りを「人の頭」がイメージを膨らませ、発展させ、似て非なる街や話を捏造していくのである。

人はその想像の産物をベースに論を立て行動している。

当たり前の話だが、人間は真実を生きる事は叶わない。

要するに、「真実にどれだけ近いか」を努力して手にする他はないのだ。

まことしやかに提示された「ほんの一部」を頼りに、ほとんどの「見えていない大部分」を自分の心情によって探りながら進みゆくしかない。

自分は「ほとんどを確かめてはいない」。これを知っておくことこそ『無知の知』なのだと思う。

僕達は何かを「確かめ頼って進んでいる」と疑うことなく生きている。

しかし本当のところは、ほとんど分かっていない只の勝手な自分のイメージにすがりついて生きているのだ。

そうか!だから『心眼』なのか。

代官山のなんの変哲もない「ただの衣料品店」の前に立った時、そう思ったのだった。

本当の事や気持なんて、余程目を凝らし、心落ちつけて見なきゃ自分自身の事だって見えちゃいない。解ってなんかいないのである。